It's too late
「待てよ」
 そうして強く掴んだ手首を引く。よろめいてこちらを向いたすぐさま、俺はいつもの手管を浴びせた。


 よく知ったぽってりと柔らかな感触、それに続いて鼻先に漂う甘さ。
 こんな状況の処理ならお手のもの。どうせいつもの気の迷いだ。女ってのはメンタルに『波』があるらしいからな――そんな達観と共に、手慣れた行為に半ばの自負を持って眼を開く。
 だがそんな俺に向けられていたのは、厳然たる失望と苛立ちを滲ませた視線だった。
「なんのつもり」
 続けざまに放たれた冷ややかな言葉。唇に残っていた甘美が一瞬にして消え去り、背筋に感じたことのない緊張が走った。
「何って、お前」
「いつもそうなのよ、あなたは」
 滑らかに描かれた眉が、いびつな皺と共に寄せられる。
「何もかもが『いまさら』なの」
 さも幻滅したといわんばかりに吐き捨て、それでも最後、かすかに寂しげな目元の光を残して俺の手を振り払う。同時にふわりと躍ったコートの裾と再び向けられた頑なな背中。まるで映画のようにできすぎた情景を、玄関の鉄扉が殊のほか重く響いて締めくくり、そうして彼女はこの家を出て行った。
「価値観の違い」という常套句も、「さよなら」という挨拶すら存在しない、酷く味気ない結末。温感などまるでない鈍さとけだるさの中、どうにも動かない脳の片隅で呟いてみる。

 いまさら。

 するとはっきりと目の前が開けた。途端襲ってきた全身を震わす寒気に、がくりと膝が崩れる。
「なんで、今更」
 がたがたと歯を鳴らしながら両肩を抱き、ただ成す術もなくおののく。

 それは、紛れもない恐怖。

 本当は必要だったのだ。
 本当は失いたくはなかったのだ。

 今この瞬間までは考えもしなかった後悔と悟りが、まるで攻め立てるように脳内で繰り返される。

 そうして瞳の端から溢れた熱いもの。

 とどめようもなく、とつ、とつ、と落ちていくそれは、まるであざ笑うかのように綺麗にそろえられた革靴の甲にとどまり、いつまでも消ええぬ慟哭の唯一の形となって鈍くゆらめく世界を映し出していた。


(400字詰め原稿用紙換算 4枚)


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