「あー、疲れた」
土曜日の23時。玄関で汗に蒸れた靴を脱ぎ捨てると、私は袖をまくりつつ洗面台へと向かった。廊下の奥にあるその前に立ち、べとついた前髪をかきあげてクレンジングオイルを拾う。両手をこすり合わせて温めた後、油浮きのひどい顔にそれを塗りつける。
「疲れた」
もはや癖になった台詞を口にしメイクを一気に洗い流すと、今度は洗顔フォームを手に取り泡を立て始めた。
「今日も疲れたな」
最近ことに疲労がのしかかってくる。実際仕事は忙しく、朝から晩まで顧客回りをしていればさもありなんといったところだが、ここのところは気疲れが大半を占めている自覚がある。
そもそもの原因は、4月にやってきた上司にあった。
異動自体は珍しくもないが、この場合はそれが能力相当ではない『社長の身内びいき』の体現だという点に問題がある。事実今週はヤツの尻拭いばかりで、本来業務をまともにこなせていない。経理部みたいな内向けの仕事でどうにもならなかった人物だというし、左遷先に勝手に選ばれたこちらは迷惑千万だ。
おかげで肌荒れしまくりよ、と鏡に映った顔を見る。それから手のひらにこんもり出来た泡をニキビ――いや、もはや『吹き出物』というべきなのだろう――のできた頬に押し当てた。
でもそれだけじゃないわね、きっと。
そもそも、私には5歳年下の恋人がいた。彼とは一昨年知り合って以来の仲で、甘え上手な彼は本当に可愛かった。
けれど。
ことの起こりは先週の日曜、私の誕生日。一昨年は食事、去年は電話で『おめでとう』とメッセージをくれた彼だったが、今年は一切の連絡がなかったのだ。
それどころか数ヶ月間メールも電話も不通。その空白に私はある種の確信を抱いていた。女が一度直感してしまったら、その後取りうる手段は一つしかない。
終わりってことね。
不思議なほどあっさりと審判を下す。余計なストレスは残さない方が身のためなんて、ずいぶん割り切れるようになったのね。
ふ、と思わず鼻で笑う。
そもそも自分の恋愛はこれまでも上手くいったためしがない。別れを繰り返すうち、自分の恋愛観に自信も持てなくなってしまった。挙句、人生なんてこんなもんなのかも、なんて達観まで得られた気がする。
なんだか虚しいわね。あたし。
その時指先に何かが触れ、驚いて閉じていた目を開ける。それが証拠に、泡まみれの顔に走った細い一筋。
「そうだわ」
小さく呟いてから蛇口をひねり、冷たい水をすくってばしゃばしゃと顔に叩きつける。顔を覆っていた全てが洗い流されると、深い息をついて顔を上げた。
「あたし、顔を洗ってたのよね」
途端、なんだか無性に笑いたくなった。
囚われかかった連鎖。陥ったら最後の、ネガティブのループ。そこから抜け出すきっかけになったひとしずくは、冷たく凍った心から出でたはずなのに、けれど何よりも熱かったように思う。
「まだ残ってるのね」
捨てたもんでもないじゃない。
意図せず触れた、前向きな、自分の熱情の現れ。
それだけで、なんだか少しだけ、週末が楽しめそうな気がした。
(400字詰め原稿用紙換算 4枚)