HIROKANA-ss (きん) −I met him in a corridor−
「おい、マジかよ」
 昼休み、連日降り続く雨で湿(しと)った廊下。突き当たりの職員室前で突然立ち止まった友人の呟きに、高遠(たかとお)英一(えいいち)は歩みを止めて振り返った。
「どうした、諸沢(もろさわ)
「あれ……」
 そう言って彼が指差した先には、連絡板に張り出された模造紙があった。『第二学年第一期末試験上位者』と書かれたそれに、ああ先週のテストの総点が出たのかと、義務半分で名前の列を左から順に追っていく。三十位から十一位は毎回激しく入れ替わり、トップテンには常連の名ばかり。いつもどおり張り合いのない結果だと紙面をなめ、最後に『高遠』の文字と学年全体での最高得点をみとめるものと思っていた英一は、自分の右隣に並んだもうひとつの名に目を見開いた。
「なぁ、『国枝(くにえだ)』って誰だよ」
 傍にいた別のクラスの生徒が呟くが、それは英一にとっても同じ疑問だった。学年全6クラス、すべての生徒を記憶しているわけではないにせよ、一度も耳にしたことのないその苗字。
 そして驚くべきはその得点だった。自分との差は二点――設問に換算すればたったの一問分だ。
「ウチの学校に、お前と張り合えるヤツがいたなんて」
 激しい混乱の中、諸沢の言葉がいやに遠く聞こえる。高校に入学してから一度たりとも明け渡すことのなかったその座が、得体の知れない人物に取って代わられたという事実。あっさり奪い去れるものではないと知るからこそ、それを突きつけられた衝撃はすさまじかった。
 どういうことなんだ、これは。
 これまで続けてきた『努力』、築き上げてきた『実績』、培ってきた『自信』。それらが一斉に崩れ去るような感覚によろめいたそのとき、右手側から歩いてきた誰かに肩が触れた。

「Entschuldigen Sie」

 相手が発した聞き慣れない言語と、一瞬視界の隅に入った薄い髪色。自分達とはなにかと縁遠い『特設クラス』の生徒だろうかと、はっとしてすぐさま辺りを探すが、廊下のどこにもそれらしい姿を見つけることはできなかった。
「ん? どうかしたのか英一」
 一瞬触れ合った空気、耳に残った異国の響き。
「今……いや、なんでもない」
 諸沢にそう返しつつ、英一はざわざわとした不安と妙な疼きが心の奥底に生まれるのを感じていた。

+++++++

 学校法人倉林(そうりん)学園高等学校。
 市内はもちろん、近隣でもトップの進学率を誇るこの高校は、一方で海外からの移住者や留学生、帰国生を多く受け入れるナショナルスクールの側面も持っていた。入学後に『特設クラス』へ振られる彼らには、英語圏の教師が常時張り付くと同時に専用のカリキュラムが組まれ、教室も離れた場所にあるため、普通クラスの生徒からすればなんとなく近寄りがたい独特の雰囲気がかもし出されていた。
 けれども今日ばかりは様子が違う。普段なら遠慮がちに素通りする彼らの教室には、まるで見世物小屋のように人が群がり、そこから戻ってきた者たちによって一番のネタにされていた。
「ねーねー、あたしさっき『特クラ』の前通ってきたよ」
「うそ! それで、どうだった?」
「特Aの教室に行ったら丁度知り合いがいてさ、どの子か教えてもらっちゃった」
 午後3時過ぎ。夕暮れに近づく教室の隅で女子生徒たちが盛り上がっている。まるで芸能人扱いだなと、英一は彼女らの熱狂ぶりに、苛立ちと呆れを半々に抱いて視線をはずした。
「なぁ高遠、ヤツ(、、)のこと知りたくねぇ?」
 そのとき前の席に座る園田が小さなメモパッドとデジカメを手にこちらを向く。あまりに絶妙なタイミングに口許をこわばらせていると、話を聞きつけたクラスメイトたちが興味深々で机の周りに集まってきた。
「学校一の情報ツウ、新聞部筆頭自らおでましか。写真見せろよ、写真」
「ねぇねぇ、その子のスペックは?」
「そう慌てんなって。ちゃんと整理して話してやっからよ」
 興奮する皆をなだめ、こほんとひとつ咳払いをしてから話し始める。
「フルネームは国枝(くにえだ)浩隆(ひろたか)。身長は178センチ。血液型はAB型。部活は化学部になってるが、実際は帰宅部状態。小学校までは日本にいたが、その後家庭の事情でドイツの親戚の家へ移住、現地校と補習校を行き来してたそうだ。今年の3月に帰国して、4月から特設クラスのA組に仲間入りしたんだとさ」
 説明しつつデジカメの電源を入れると、薄茶色の髪を少し長めに伸ばした眼鏡の青年が液晶に映し出された。それを目にして英一は思わず身を乗り出した。
「彼は」
「なんだよ、知り合いか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないが」
 そうか、あれはドイツ語だったのか。映し出された髪色に、昼休みに廊下でぶつかった相手の正体を確信し、椅子から浮かせた腰を下ろす。
「へー、イイ感じじゃない。もしかしてハーフかなんか?」
「いいや4分の1。母方のじいさんがドイツ人らしいが、日本に帰化したってことらしい」
「なるほどねぇ。で、なんで『特』のヤツが俺らと同じ試験受けてんだよ。あっちはインター用のがあんだろ?」
 クラスメイトの一人が発した疑問に、「そうそう、いいとこつくねぇ」と園田はメモを閉じて声を低めた。
「とある情報筋によるとだな、国枝はかなりの秀才で、特クラの授業をあっという間に消化しちまうらしいんだ。で、向こうの世話もしてる佐伯教頭が、『腕試しに日本式の試験もやってみるか』って特別に勧めたらしい」
 その話にざわりと教室の空気が揺れる。「俺たちを馬鹿にしてる」と教頭に怒りを表すもの、「すごいねー」と余計にファン心理を燃やすものとさまざまだが、そんな喧騒に突如教室の扉の開かれる音が割って入ってきた。
「こら、さっさと席に着け! 休憩時間はとっくに過ぎてるんだぞ」
 怒鳴りつつ入ってきた7時限目の担当、クラス担任で世界史の清水教諭は、全員が着席したのを確認するとしんと静まった教室を一度見渡してにやりと笑った。
「どうだ、『特クラ』にだしぬかれた気分は」
 ひげ面にハマった性悪な口調に、当然非難のブーイングが起こる。
「あのなぁ、文句たれてる暇があったら必死で勉強しろ。先生方は皆お前らに期待してるんだ。やられたままで引き下がるような生徒はウチにはいないって思うからこそ、あえて強い対抗馬をぶつけて競わせようとしてるんだぞ」
「でも、そんなこと言ったって……」
 不安を含んだつぶやきを誰かが漏らす。特設クラスの上にあの成績では、というニュアンスがすぐに教室全体に広がっていくが、清水はあっけらかんとして言い放った。
「なんでもやってみなけりゃわからんだろ。自ら動いてこそ、ドラマが生まれるんだからな。それに俺たちだって、勝てない授業をやるつもりはないから安心しろ」
 強い口調で言い、にっと白い歯を見せた後、一瞬英一に視線を向ける。
「ライバルがいるってのは刺激になる。今の自分を変える、今の自分を超える新しい目標ができるんだ。考え方を変えてみたら、今こそ絶好の機会だと思えてこないか?」
 なあ、と最後に全員に呼びかける。熱血教師と名高い彼の、その名にたがわぬ熱のこもった話し振りに感化されたのか、皆しんと静まったまま異論は一言も出てこなかった。
「……ようし、わかったんなら教本開け。人生ってのは、自分の心持ち次第でどうにでも転がるもんなんだからな」
 そうして始まった授業に、クラスメイトたちがいつもにも増して集中している雰囲気が伝わってくる。
 自分も遅れてなるものかと、英一もまたノートに鉛筆を滑らせ始めた。

+++++++

 放課後、英一は借りていた本を返しに図書室へ向かった。
 とはいえ7時を回ろうとしている今では部活も終わって誰もいないだろう。戸を開けて中へ入ると案の定で、英一はカウンターに近寄ると奥の控え室へ声をかけた。
「あの、どなたかいらっしゃいますか」
「おう、その声は高遠か。ちょっと待ってろ」
 ごそごそという物音の後出てきたのは、先ほど7時限目を受け持っていた清水教諭だ。ラガーマン然として隆々とした外見はまるで図書室に似合わないが、こう見えて司書資格を有しているのだと以前教えてくれた。
「いつもながら勤勉だな。また借りていくか?」
 言いながら受け取った学生証代わりのICカードを読み込み、返却の手続きを済ませる。
「はい。前に来たとき、ちょっと気になった本があったので。時間、大丈夫ですか?」
「ああ、構わんよ」
 ありがとうございますと返すと、彼はふふと小さく笑った。
「何か?」
「いや、さっきの授業のことさ。クールなお前も流石に熱くなったらしいな」
 ぎくりと思わず身構える。が、からかわれているのだと気づきすぐにとりなした。
「先生方が少し天邪鬼すぎるんです。心臓に悪い悪戯はやめてください」
「何を年寄りじみたことを言っとるんだ。若いんだからもっとストレートに感情を剥き出せ。そういう挫折も、若いお前達には必要だと思うからこそ。あれは俺たちの愛情表現だよ」
 思いがけない言葉に、ひくりと頬がこわばる。
「挫折、ですか」
「そうだ。社会に出ないうちからヘタに天狗になられても困る。世の中は想定外だらけ、そんな時の自分への喝の入れ方を、今のうちから体得しておいた方が後々身のためになるだろうしな」
 歯に衣を着せぬこざっぱりとした物言い。らしいな、と次の瞬間笑みが漏れる。
「まぁ何事も冷静に判断できるお前には、いらん心配だろうとは思うが」
「それは買いかぶりすぎですよ」
 ふと英一の口許に浮かんだ苦さに、清水は「そうか?」ととぼけた顔で返す。
「いつもてっぺんから見下ろしてるだけじゃつまらんだろ。たまには見上げる側に立ってみるといい。それに、お前は海外留学も控えてるんだ。今から国際感覚を身に着けるって意味でもあいつが適任だろうと、教頭はそうお考えになったらしいしな」
「あの、それは……国枝君のことですか」
「ああ。だが俺からはこれ以上の情報は与えんよ。興味があるなら自分で近づいてみることだ。一度敗れた相手だからって臆することはないぞ。倒すチャンスは人生で数え切れないほどあるんだからな」
 行け、勇者よ! とおかしな激励をよこした彼に「努力します」と返し、英一は目当ての本を探しに書棚へと向かった。
 この学校の蔵書は、小さな図書館ひとつ分にも相当すると言われている。多くはOB、OGが寄贈したもので、その中に先日ある専門書を見つけた。行政のありかたについて記されたその著書は、将来国家公務員を目指す自分にとっては必要なスキルであり、政経の授業の派生で興味をそそられていたものだった。確か奥だったなと本の林を進み、最奥の一列を探しながらゆっくりと移動していく。
「ええと……」
 そうしてじきに目当てにたどり着いた。著者とタイトルを確認し、間違いないと右手を伸ばしたそのとき、すぐそばから同じように伸びてきた左手の甲に触れた。
「えっ」
 予想だにしなかった人の気配に驚いて咄嗟に手を引っ込め、改めて隣に立っていた人物を見つめる。

 薄い茶色の髪をした眼鏡の青年――そこにいたのは誰あろう、あの国枝という男子生徒だった。

+++++++

 こちらに向けられた眼鏡の奥の瞳が、ほんのかすかに驚きを映す。
「君は」
「……Bitte」
 ちら、と本に目くばせしてから発せられた言葉。昼休みの時と同じくするりと脇を抜けた彼に、英一は思わず声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 君、国枝君だろ?」
 すると歩みが止まり、振り返る。
「Wer sind Sie?」
 流れるように紡がれる異国の言葉。こちらを警戒している雰囲気が伝わってきて少し緊張した。
「そうか……えっと、英語なら通じるかな? Can you speak English?」
「……失礼、普通に話してくれて構わない」
 突如流暢な日本語で返されて驚く。思い返せば彼はもともと日本生まれ、さらに先日の試験でも普通クラス用の設問を解いているのだ。話せて当然だと改めて納得している間に頭の中がリセットされてしまい、何を話したものやらと躊躇していると、彼はひそりと眉を寄せ冷たい声色で問うてきた。
「君は?」
「あ、すまない。俺は2−Eの高遠英一っていうんだ」
「高遠」
 名を出した瞬間、彼の顔に何かを思い出したようなかすかな戸惑いが映る。がそれも一瞬で消えた。
「それで、何か用?」
 隙のない雰囲気に思わず身体の芯が冷える。今更ながらなぜ声をかけたのだろうと半ば後悔していると、彼はかすかに溜息をついて歩き出した。とりつくしまもなく去っていこうとする背中を前にして、英一は何とかしようと咄嗟に思い浮かんだ言葉をぶつける。
「ありがとう」
 すると、明らかに不快感を示した表情がこちらへ向けられた。
「それはどういう意味?」
「いや、この間の試験のことさ」
 脈絡がない言動だと内心苦笑する。もちろん彼にとってもそれは同じようで、口許がかすかな苛立ちをたたえていた。
「それで? どうして君から礼を言われなきゃならない」
「俺、君がいたお陰で二位になってさ」
「だから?」
「だから……嬉しかったんだよ、多分」
 そんな言葉が口を突いて出るとは、正直英一自身も想定していなかった。けれどもこれは決して考えて出たものではない、無意識から出たまさしく自分の本心の一部なのだろう。なんとも不可解なそれを、どんな風に受け止められるのかと、少しの間を置いて彼を伺う。
「それは皮肉のつもりか? 普通は悔しがるものだろう」
 するとごく自然な反応が返ってきた。
「確かに悔しかったさ。たった2点の差で、俺は長年守り続けてきた座から初めて引き摺り下ろされたんだから。自負もプライドも、何もかもがガタガタだよ」
「なら、何がそんなに嬉しいというんだ」
「そうだな、正直俺にもよく分からない」
 感じたとおりに苦笑し小さく肩をすくめると、まるで相手にならないとでも言いたげに、彼は「話はこれで終わり」と含ませた息をついた。
「けど、さっき先生に諭されて思ったんだ」
 それでもなお取り縋り、英一はひと時の間を置いてから、内にあるものを整理し言葉を導き出した。
「もしかしたら、やっと競うに値する好敵手に出会えたのかもしれないって」
「競うだって? どうしてそんな」
「君が、16年の人生の中で唯一、目に見えるもので俺を負かした人間だからだよ。たった1問ごときでと他人は言うかもしれないけど、その正答を保持するために必要な努力と苦労を俺は知ってる。今回の結果は、帰国生でもある君の姿勢が現地人の俺を上回っていたという証拠。そう思ったらなんだか余計悔しくて、腹が立って、絶対に見返してやろうと思ったんだ。今度こそ負けるものかって」
「すなわち君は俺をダシにして、長らく錆付いていた闘争本能を奮起させようとしているのか」
「そんなところかな。でもそういう君だって、そのポーカーフェイスの下で『同じ日本人なのに、本国の学生とはかくも不甲斐ないものか』って見下したはずだ。多かれ少なかれ、ね」
 悔しさと憎しみを半々に込めて挑戦的に放つと、彼がむっと睨み返してきた。
「図星だったかい?」
「ずいぶん失礼な物言いだな。まったくの初対面で宣戦布告でもするつもりなのか」
「そう取って貰ってもいい。もちろん受けるか無視するかは自由だが、こっちの射程圏内にはもう入っているから、いつでもやられる覚悟だけはしておいてくれ」
「それもまた身勝手な話だ。実質逃げ場がないじゃないか」
 そこで初めて、浩隆の口許に小さな苦い笑みが浮かぶ。どうやらキツめのジョークが通じたらしい。それを目の当たりにした表情に英一が得をしたような気持ちになっていると、しばしの間を置いた彼がゆっくりと身体の向きを変え、正面から見据えてきた。
「俺には今、別の目的がある。それが果たされるまでは……」
「別の? もしかしてそれが今回帰国した理由なのかい?」
 少しばかりプライベートに踏み込んだ問いを向けると、彼の瞳に一瞬鋭い光が瞬いてすぐに消えた。
「ともかく、そっちが片付いたら、そのときには正々堂々受けて立つことにしよう。俺は売られた喧嘩は必ず買う主義なんでね」
「そうか。ならそれまでは片思いさせてもらうことにするよ」
「本当に……呆れる程のしつこさだな。外見とは大違いだ」
「そこが人の表と裏、内と外で面白いところじゃないか?」
 彼は最後に小さく笑い、「確かに」と言って今度こそ踵を返す。その背を見送りながら、英一はにわかに湧き上がった高揚感に胸を膨らませていた。
が、ふと歩みを止めた浩隆が視線の先で振り返ったのにどきりとする。
「君の名前、覚えておくよ。高遠英一」
 不敵な笑みを残して去ってゆくさまに、こちらも「いいや、絶対に忘れさせない」と返す。
 そうして本の林の中に一人残された英一は、思い出したように探していた本を手に取ると、今度は別の棚に並ぶ参考書を数冊余分に借りて図書室を後にした。

 次の試験が待ち遠しい。
 そんな風に思えるようになったきっかけの出会い。
 それは自分が生まれ変わったかのような爽快感を英一の中に生んでいた。


400字詰め原稿用紙換算 22枚

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