HIROKANA-ss (いき) −Unconscious gravitation−
「なぁ嘉州(かしゅう)、『鋼の天使(スティール・エンジェル)』って知ってるか」
 午後の3205講義室で友人たちが振ってきた話題。ホワイトボードにみっちりと書かれた有機化学の講釈を消しながら、嘉州(かしゅう)恭司(きょうじ)は興味を引かれて振り返った。
「いいや、知らないな」
「なんだ。向こうの講座にも顔出してるお前なら、何かしらネタを持ってると思ったのに」
 言って一人が窓の外――中庭を挟んで建つ新校舎を指し示す。
「出会うどころかその話自体初耳だよ。で、なんなんだそれは」
「今年工学部に入った才女でさ、すげー美人らしい」
「そうそう、モデル並のプロポーションでなっ」
 途端に賑わう話の輪に異名のいわれを理解する。ネーミングのセンスといい通っている情報といい、男ばかりの学部ではある意味らしい(、、、)話題だなと思わず苦笑が浮いた。
「くっそー、そんな特典があると知ってりゃぁ向こうに行ったのに」
「確かに毎日教授の板書の解読ばっかりじゃぁ、大学に入った甲斐がないっつーの。なぁ恭司?」
 中庭を隔てた『楽園』に思いを馳せる彼らに、どうかなと返し肩をすくめる。大学に入ってまだふた月、針路変更には早すぎるんじゃないのかと呆れつつ、時計を見やって机に広げていたノートを片付け始めた。
「で、その天使様の名前は?」
「なんだよ。興味ないフリして、お前も隅におけねぇな」
「そう言ってくれるなよ。校舎向かいにまで知れ渡るほどの美人なら、情報をつまんでおくに越したことはないだろ」
 同志よ! とおかしなノリで再び盛り上がった場に、小さくため息を吐いて改めて問う。
「もったいぶってないで、そろそろ教えてくれないか」
「ワリぃワリぃ。確か『ユリア』って言ってたよな?」
「ああ。石沼(いしぬま)由梨亜(ゆりあ)って」
 その名前を耳にした途端、心臓がどきりと跳ねた。同時に脳裏に浮かんだ記憶の断片に、動かしていた手を止めてひそりと眉を寄せる。
 まさか。
 そうして至る同じ名の少女の面影。子供の頃の思い出の中でも特異だったその出会い。今の今まですっかり忘れていたというのに、あのとき交わした言葉がにわかに現実みを帯び始め、不覚にも指先がこわばりノートを取り落とした。
「ま、そーゆーことだからさ」
 屈んでそれを拾ったのと同時に届いた言葉。はっとしてすぐさま立ち上がると、友人たちは我先にと講義室の出口に向うところだった。遅れまいと慌てて鞄を担ぐが、駆け出そうとした瞬間最後尾の者に制される。
「お前、今日は『製図台(ドラフター)の墓場』に行くつもりなんだろ?」
「え?」
 それそれ、と右手に持っていた黒い図面ファイルを指差される。
「今は学生の出入りがほとんどない旧棟の製図室から、ぶつぶつ何かを思案する声が聞こえる……ってまるで学校の怪談だけどな。ま、親父さんからの宿題とはいえあんまり根詰めすぎんなよ」
「そーそー。お前一旦入り込むとなかなかこっちの世界に戻ってこねぇし。だから俺たち先に帰るわ」
 もちろんあっち(、、、)経由でと言い残し、いそいそと出て行く彼らを突っ立ったまま見送る。勢いが削がれて肩からずり落ちた鞄を背負い直すと、ひとり窓の外――向かい合って建つ工学部棟をゆっくりと見やった。

「由梨亜」
 しんとした室内に自分の呟きだけが響く。高鳴る鼓動とともに明らかに膨らみ始めた期待感。やもすれば際限なく広がって行こうとするそれを、努めて冷静に諭し抑える。
 馬鹿な。ありえない。
 言いきかせながらも最後にちくりと胸を刺した痛みに、図面ファイルをしっかりと持ち直す。
 そんな都合のいい偶然があるはずがない。
 もう一度繰り返して問答を振り切る。そうして自嘲に似たため息を一つ残すと、恭司は傾き始めた陽光に照らされた旧学部棟を目指し歩き出した。

+++++++

 こつこつと靴音が響く長い廊下。人気もなく幾分かひんやりとした空気の流れるそこを、恭司は一人製図室へと歩きながら懐古する。
 そう、あれは8歳の時だった。
 父親の仕事の都合で一時的に引っ越した都内のマンション。住み始めて二日後の夜、塾が早々に上がって帰宅し、暇つぶしに出たベランダである光景に遭遇(、、)した。
 視界の端に映り込んだ少女の姿――隣のベランダからぐんと身を乗り出した哀しげな横顔に、咄嗟に『自殺』の二文字が浮かんで慌てて制止すると、相手も最初こそ驚いていたがすぐに「誤解よ」と苦笑いを返してきた。
『ゆりあ』と下の名だけを名乗った彼女との出逢い。その後自分たちは毎晩のようにベランダに出ては、いろいろな話をして親が帰宅するまでの時間をつぶした。だが家庭内のことになると途端に口をつぐむ様子に、子供ながらに事情がなんとなく察せ、それが時折見せる哀しげな表情の理由なのだろうかと思い始めていたある夜、彼女が前触れもなしに突然自分を訪ねてきたのだ。
『あたし、同じ夢を見るために頑張るから』
 桟越しではなく玄関で面と向かった彼女は、ウサギみたいに眼を真っ赤にしてそう言った。あまりの突拍子のなさに意味を解せずなんのことだと問い返すと、その表情がみるみる凍りつき、直後自分の左頬がぱしんと鋭い音を立てていた。
『なんにも気づかなかったっていうの!』
 そうして大粒の涙と共に謎かけの言葉を残した彼女は、すぐさま階下へと走り去り二度と戻っては来なかった。
突如空っぽになった隣の部屋と不可解で悩ましい言動。しかし今になって思えば、あれは別れ際の強がりの一種であり、新しい生活への決意でもあり、もしかすると『将来技術者(エンジニア)になる』と言った自分に対するほのかな想いの現れ――少々ナルシシスティックな物言いではあるが――であったのかもしれない。
「なにを今更」
 ふ、と自嘲し記憶の一頁を閉じる。女心など知りようもなかった頃の自分を省みたところで、今この現状が変わるわけでもあるまいに。これはきっと一種の場面逃避。加えてその誘引が、科学者である父から与えられた宿題(、、)であろうことも容易に類推することが出来た。
「『気付き』から糸口が掴めるとでも言うのかい? 嘉州君」
 自己分析の結果を厳と切り捨てて感傷の欠片を払い、目の前の現実――視線の先に見えてきた製図室に再び思考を切り替える。
 大学の敷地内でも文化財級と名高い旧学部棟の中にあって、ある種異様な雰囲気を放つその場所。古い製図台(ドラフター)が群れる部屋は、教科の補助時以外にはほとんど人の出入りがなく静かだ。
 今日はこれまでに書きなぐったメモを再検討してみよう。作業の遅滞を裂く打開策を頭の中で編みながらドアノブに手をかけたそのとき、小さな覗き窓から見えた光景に思わず動きが止まった。
 西側の窓に向ったA1版のドラフティングテーブル。その前に座すほっそりとした肢体と背中に流れる長い髪。広げられた製図用紙には既に行く筋もの線が引かれており、その人物が明らかに図引きの作業のためにここへ来ているのが見て取れた。
 誰だ?
 自分の領地を侵されたような、そんな苛立ちを覚えつつ一歩を踏み出す。
 そうして年代ものの扉が立てた蝶番の音に、製図台の君がこちらを振り返った。
 きりと引かれた眉にふんわりと色の乗った唇。美しいが警戒もあらわな(おもて)に、しまったと慌ててかぶりを振る。
「す、すまない驚かせて。まさか先客がいるとは思わなかったんだ」
 先ほどまでの強気が一転、真直ぐに向けられる茶色の瞳にどきまぎする。不穏な空気にどうしたものかと後頭部を掻きながら、まずは名乗るのが先決だなと思い至った。
「あの、俺は理学部の嘉州恭司。父と工学部の天ヶ谷(あまがや)教授が知り合いでね、そのツテで時々ここを使わせてもらっているんだ」
 すると予想だにせぬ反応が返ってきた。
「え? じゃぁ、あなたが二股(、、)の」
 思わずの(てい)で言い、はっと口許を押さえた仕草に苦笑する。工学部と理学部を『特例』で行き来している自分に、学生達がいつしかつけた妙なふたつ名。別段どうこういうつもりはなかったが、伝播しているという現状には苦いものを禁じ得ない。
「ごめんなさい」
 そんな内心を察したのだろうか、彼女は少しばかりばつが悪そうに視線を逸らし、再び図面に向き直ってしまう。折角の融和の糸口を向こうから絶たれてしまい、恭司は小さくため息を吐くと、仕方なく彼女と背中合わせの台に着いて作業を始めた。
 ファイルに折り込まれた用紙を板に広げ、これまでの経過を一から辿り直して徐々に集中を高めていく。書き溜めたメモを次々めくり、そこに付箋紙とト書きをさらに加え、自ら引いた線を追いながら小一時間ほど再考し……結局いつもと同じ箇所で頓挫した頃、いらつきだした心が軽やかで鋭い音を捉えた。
 その源――背中合わせの彼女が振るう製図用のペンとスケール。しゅっしゅっと耳に心地言い音が夕暮れ色に染まった室内を満たし、ちらと見やると、光の加減だろうか道具を繰る動きが残像を描いて見え、まるで演舞のようだと瞬間的に思う。しばし見惚れてしまい、その気配に気付いたのかふと手を止めた彼女がこちらを振り返ってきた。
「なに?」
「いやあの、君ここにはいつから?」
「ひと月ぐらい前から。だから鍵を借りに行くたびに天ヶ谷教授から話は聞いていたの。『旧棟の製図室にはもうひとり常連が居るんだ。しかも今流行りのイケメンだぞ』って。だからいつかはって思っていたけれど、まさかこんなに早くに会えるなんてね」
 どうやら名乗ったことで多少なりとも警戒を解いてくれたらしい。柔らかな口調に乗った笑みがなんだか面映くて、慌てて話題を逸らした。
「君、工学部?」
「ええ」
「作図の課題かなにかで?」
 聞きながら気付いたことがある。用紙に引かれた複数の線は、どれもこれぞと言うべき主線が明らかでない。設計後のイメージ構築や、元図のさらに下書き段階なのだろうかと勘ぐっていると、彼女は「ああ」と少し照れた顔をしてひとつ息を吐いた。
「これはね、『自分』を描いたものなの」
「え?」
 言われた意味が分からず眉をひそめると、抽象的過ぎたかしらと説明が加えられた。
「緻密に積み上げられた計算式にくみ上げられた理論。製図線はその集大成、だからこそ一本一本に妥協は許されないし、なにより迷いがあってはならない。本来ならこれが自分の導き出したすべてだと言い切れるものを、この上に記さなければならないと思うんだけど……」
 そうしてペンをもうひとふりする。
「私はまだまだ未熟だから、線が揺らいだり曲がったり、どんな一本を引いたらいいのか、どう()ればいいのか分からなくなることの方が多いの。そうして行き詰った時はひとりでここへ来るわ。誰もいない静かな空気の中にいると、余計な事を考えずに無心になれる。そうして思うままに同じ動作を繰り返していると、だんだん肩からも余計な力が抜けて、気付いたらこの紙の上に考えもしなかったすばらしい一本が引けていたりするから」
 かかる時間はその時々だけど、と再びこちらを振り返る。
「そういう意味では、ここが私の『(いき)』だって言えるかしら」
「え、『いき』?」
 突然放たれた言葉に、それがなにを意味するのか即座には合点できなくて聞き返す。
「自分の中に眠る未知数を知覚させうる境界。だからこそ、ここへ来れば本来の自分に立ち返れる。初心を取り戻すことが出来る。無意識と意識の狭間で自分を省みて、『まだまだやれる。がんばりなさい』って檄を飛ばすことが出来るの」
 ああ、『(いき)』かとそこでやっと納得する。工科の人間からまさか心理学用語を聞こうとは。その知識の広さに感心していると、彼女がおもむろにこちらを覗きこんで問うてきた。
「ひとつ聞いてもいい?」
「え? ああ」
「あなたは、なにを描いているの?」
 微笑みと共に指差された付箋だらけの紙面。だがその時なにかが脳裏にひらめき、淀んでいた心に鮮やかで明らかな『答え』が浮かび上がったような気がした。
「これは」
 そうして至極自然に紡がれる本心。
「俺の『夢』だよ」
「夢?」
「そう、世界を亘り人を等しく救う技のかたちだ」
 瞬間我に返りはっと口をつぐむ。父親と共有した以外には、誰にも話したことのなかった夢。あまりに壮大すぎて現実味の伴わないそれを、彼女は一体どのように聞いたのだろう。激しい後悔と羞恥に苛まれていると、こちらをじっと見つめていた双眸が直後柔らかな光を映して細められた。
「羨ましい」
「え?」
「それは技術者(エンジニア)が誰しも内に抱いていて、けれど口には出せずにいる到達点よ。なのに、あなたはいとも簡単に口にしてしまった。実力に裏打ちされていなければできないことだわ」
 口許に苦いものを浮かべた横顔。逆光の中に沈むそれに一気に目が吸い寄せられる。
「妬けるわね」
 情けないけど、と小さく言い置いてこちらに背を向け、彼女は作業を再開した。握ったペンが再び紙の上を滑り出し、白い世界に漆黒の軌跡をいく筋も描いて端雅な空気を作り出してゆく。まっさらな己に立ち返り、また目覚めた熱情。その確かさと無限の可能性を見せつけられているような感覚に陥り、胸の奥にちりちりとした痛みを覚える。
「妬けるのはこっちだよ」
 ひそりと呟いた自身に押されるように、胸を瞬く間に満たした感情、そして衝動と鼓動の高まり。次の瞬間、恭司はまだ見ぬ領域へと踏み出す一言を無意識に発していた。
「あの」
「なに?」
「君さ、次はいつここへ来るんだい?」
 ふ、と彼女の手が止まり、驚いた顔がこちらへ向けられる。その反応に己が内を改めて知覚し、かすかな苦笑を浮かべながら続けた。
「それから今更だけど、君の名前を教えてくれないかな」


 道が拓ける。
 今度こそつかまえられるかもしれない。

 そんな確信と密かな気概を込め、恭司は立ち上がると彼女の傍へと歩み寄る。
 そうして見上げてきたその頬が、夕日のそれではないほのかな赤みを差していることに気が付いた。


「私の、名前は……」


400字詰め原稿用紙換算 18枚

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