HIROKANA () −I do!−
 街灯の灯り始めた大通りに面するカフェ。その一番奥のテーブルで注文したコーヒーを受け取り、英一は向かい合って座る親友を促した。

「様子がおかしいのにはうすうす気付いてた。とは言っても痴話喧嘩の類なら、俺が出ることもないだろうと思ってたんだがな」
 痛烈な皮肉交じりの台詞に、彼の膝の上の拳がなおきつく握り締められる。それを見やってコーヒーをひとくち含み、落ち着くための時間を稼ごうとした英一だったが、結局ふつふつと湧き上がるものを抑えきれず、それはカップとソーサーのぶつかる音となって現れる。
「それがどうだ。今頃になって泣きつかれるとは思わなかったぞ。一体どういうつもりだ、ヒロ」
 満身の責め。しかしそれを向けられた彼は口を強く引き結び、うなだれたまま動かない。わなわなと震える肩に激しい混乱と無言の自責を察し、改めて事の重大さを認識し椅子に背を預けた。
 まさかここまで追い詰められてるとはな、とひととき天を仰いで内心呟く。彼の才、そして性格をつぶさに知ればこそ尚更に信じがたい。

 まったく……我が妹ながらとんでもないヤツだ。

 感嘆と呆れ、そして同情の入り混じったため息をひとつ吐き、さりとても何か打開策はあるのかと、男同士の連帯感を優先させようとしたそのときだった。
「英一」
 今まで噛み締められていた唇からかすれた声が漏れ出し、同時に上げられた眼鏡の奥の瞳に、強い何かが覗えたような気がして思わず身構える。
「なんだ」
「頼む」
「何を」
「俺に最後の機会を与えてくれ」
 まっすぐに挑みかかってくる双眸。それは高校時代――好敵手だと思わされたときと同じ、そしてあの時「こいつにならば」と思わされた真摯で偽りのない眼と同じもの。
 そうして次いで向けられたつむじに、しばしの沈思のあと英一は居住まいを正した。
「いいだろう。そもそもお前が言い出したことだ、なんとしてでも約束は守ってもらうぞ」
 その言葉に頭を上げ頷き返した彼を、それでこそ俺の認めた男だと心の中で付け加え、こちらも目一杯睨み返す。
 親代わりゆえの期待と、友への激励を共に含ませて。

+++++++

 金曜日、夏の夕暮れ。
 赤く焼けた西の空を眺めながら、カナは温い風の吹く駅前通りを歩いていた。
 いつもどおり帰宅ラッシュの人混みを逆行してアパートの方向へと進む。途中赤信号で交差点に足止めをくらい、そうして道路向かいにいる一組の男女が目に入ってちくりと胸が痛んだ。
 半年前のあの日と同じ赤信号――雪の舞う中で信じがたい光景を目にした後、カナは浩隆(ひろたか)に一通のメールを送っていた。
『就活に専念するから、しばらくの間連絡はとらない』
 そうして事実上の絶縁宣告をしてから半年あまり。僅かながら実感を伴い始めた好景気にも押され、就職活動は思った以上にスムーズに進んだ。専攻分野を生かせる勤めを希望していたカナにも5月の半ばには内定通知が届き、本来それは飛び上がるほどにうれしいことのはずだったが、しかしメールのことを思うとその喜びもすっかりしぼんでしまった。
 混乱を収め気持ちを整理するための猶予。そのきまりを自分でつけたはずなのに、今となってはそれが重い枷のように感じられる。
『わかった。応援してるから頑張れ』
 あの時返ってきた彼のメッセージは、こちらの意志を尊重しようという心配りか、それとも……。
 内定というきまり(、、、)がついてずいぶん経つというのに、未だに行動を起こせずさまざま勘繰っては落ち込む日々。溢れだした涙と共に、自信もそして自分が本当はどうしたかったのかすら、いつの間にか見失ってしまった。
「ホント、どうするつもりなの?」
 うつむき加減で歩きながら、やるせない気持ちで問いかける。連絡を取るきっかけも掴めず、このまま風化してしまうのだろうかと、じわりと目の奥が熱くなった。
 こんなとき無条件にすがれるのは親友の由梨亜(ゆりあ)なのだが、先ほどのメールの返事からして今日の彼女には先約があるらしい。おそらく恭司(きょうじ)と食事にでも行くのだろう、二人の睦まじいさまと自分を比べて暗い気持ちに拍車がかかる。
 そのときだ、鞄の中で携帯が震えた。はっとして取り出してみると、サブディスプレイにメールのアイコンが点滅していた。
『今夜、あいてる?』
 それは義姉のジャスティナからのメールだった。
『春からなにかと忙しくて、カナちゃんの就職祝いをちゃんとしていなかったでしょう? 折角だから今夜しようって英一さんが言ってるんだけど、どうかしら?』
 突然の誘いに驚きつつも時間を確かめる――午後7時15分。乾杯するには丁度頃合だ。暫時考え「よし!」と一人で気合を入れてキーを打ち始める。
『今日はバイトも早上がりだし、そのまま泊まっちゃってもいい?』 送り返すと、すぐさま『もちろん(^^)』と返ってきた。料理上手な彼女のことだから、きっとたんまりご馳走を用意してくれているに違いない。発起人へのお礼も兼ねて何かデザートでも買っていこうかなと、青に変わった横断歩道を歩き出す。
 瞬間脳裏に浮かんだ面影と胸を刺した痛み。再び押し寄せた淀んだ気持ちに、渡りきった先で立ち止まり頭を振って暗い想いを追いやる。
「ダメね、あたし」
 ひとりごちた、その唇の端の力み。
 嫌なことから逃げている、そんな自覚を心の底に押し込んでカナは通りを走り出した。

+++++++

「え、何でアニキが?」
 マンションの703号室の玄関で、すっとんきょうな声を向けられた兄――英一は、さも心外だといった表情で妹に返した。
「ジャスは調理中だから俺が代わりに立っただけだ……折角祝ってやろうっていうのに、なんだその態度は」
 人差し指で額を小突きふいと背中を向ける。いぶかしげに眉を寄せ、カナはつつかれたところを押さえながら部屋へ上がった。
「いらっしゃい、カナちゃん」
 サラダボウルを手にテーブルの前に立っていた義姉ジャスティナが、こちらを振り返って明るく笑う。その向こうに並べられた料理の数々に、思わず生唾を飲み込んだ。
「うわ、すごい……これ全部アタシのお祝い?」
「そうよ。でもまだ揃っていないから、もう少し待っててね」
 そんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか、くすりと笑われて顔が赤くなる。
「まぁ適当に座ってろよ。もうすぐだから」
 ソファに腰を下ろした兄にはぁいと答え、キッチンの対面台に差し入れを置いてからテーブルに向かう。今度はどんな料理が並ぶのだろうと考えながら、目の前の梅肉巻きささ身フライをつまんだそのとき、来客を告げるブザーが二度室内に鳴り響いた。
「あれ、お客さん?」
「……来たな」
 英一の呟きと同時にジャスティナがインターホンに駆け寄る。誰だろうと首をかしげていたカナだったが、小さな液晶画面に映し出された影に、フライを思わず取り落とした。
『ジャスティナ? 僕だけど』
 久しぶりに聞いたその声。ご馳走に浮き立っていた心が一瞬にして凍りつき、頭の中が真っ白になる。どうしたらいいのかと身の置き所を探すがどうにもならず、小刻みに震える指先を押さえてカナはすがるように英一を見た。
「逃げるなよ、カナ」
 膝の上で手を組み、きっぱりと発せられた声にぎくりとする。
「おまえたちに何があったのかよくは知らないけどな、いつまでも目を背けてないでちゃんと向き合えよ。そうすれば、真実は案外とるにたらないものだったかもしれないだろ。最初から逃げ腰なんて一番お前らしくないじゃないか」
 痛いところを衝かれて反論もなく押し黙る。ゆっくりと立ち上がった英一は、こちらに歩み寄ってくるとその手を自分の頭に載せてひとつ頷いてきた。
 そうして鳴り響いた玄関チャイムの後、出迎えに行ったジャスティナとそれに応える声が徐々にこちらに近づいてくる。やがてリビングに現れた彼――浩隆は、ワイシャツにネクタイといったいかにも会社帰りという姿だった。
「よう。変わりなさそうでなによりだ」
 英一の棘に苦い笑みを返し、手にしていた紙袋をジャスティナに渡す。中を覗きこみ嬉しそうにキッチンへ向う背を送って、浩隆はことのほかゆっくりとテーブルの方に目を向けた。
 瞬間ぶつかった視線。咄嗟に顔を背けた彼女の横顔が心なしか痩せて見え、胸にちくりと痛みが走る。
 そして一方のカナは、目を逸らしたことを激しく後悔していた。先程兄に釘を刺されたばかりだというのにと、自分の意気地のなさに憤る。
「あらあら、大変」
 そんな漂うぎこちなさを察してか、絶妙なタイミングでジャスティナが声を上げた。一斉に向けられた視線に、悠然と答える。
「折角浩隆さんがチーズと生ハムを差し入れてくれたのに、肝心のワインを切らしていたの」
 私ったら、とことのほかのんびりとため息を吐いて眉間に皺を寄せた。
「そうか……なら俺が出てこよう。折角の祝いの席だ、相応のものを提供しなきゃならないからな」
 いち早く方針を示し、言うなり英一は財布を取って玄関へと向かう。
「ああ待って英一さん、私も一緒に行くわ。足りない食材があるから調達してきたいの」
「えっ? ちょっと、ジャス!」
 エプロンを外し自分も続こうとした義姉に、カナは慌てて追いすがった。
「ああ、ごめんなさいねカナちゃん。すぐに戻ってくるからちょっと待っていて」
「でも」
「浩隆さんと一緒だから大丈夫よね。二人でお留守番よろしくね」
 顔だけ振り返って可愛らしいウインクを残すと、二人は嵐の如く慌しく外へ出て行ってしまった。バタン、と扉の閉まった後に残されたのは、どうにも気まずい空気。しんと静まり返った部屋の中には時計の針の音だけが響き、カナが息苦しさを覚えたとき、場を繕うような小さなため息が彼の口からひとつ漏れ出した。
「どうやら家主の言いつけどおり、二人で大人しく留守番をしているしかなさそうだ。ね、カナちゃん」
 それは張り詰めた空気を緩める大いなるきっかけとなった。おそるおそる顔を上げ、こちらに近づいてきた彼と向かい合う。
「久しぶり、だね」
 まだ幾分かよそよそしい言葉に、カナは「そうね」とこちらもそっけなく答えてソファへ腰を下ろした。彼が苦笑を漏らした気配が感じられて全身がかっと熱くなる。
「少し痩せたんじゃないか? カナちゃんは朝が弱いから、面倒臭がって朝ごはん抜いたりしてたんじゃないだろうね」
 言いながら浩隆もラグにあぐらをかく。そうして下から彼女を窺うや、どきりと心臓が跳ねた。
 かすかに寄った眉間の皺。引き結ばれた桜色の唇。膝の上で握られた白い手。それらを目にして湧き上がったもの、駆け上がったもの、満ちたもの――そのひとつひとつを冷静に整理し、己の中にひとつの到達点を導き出して、締め付けられるような想いに居住まいを正す。
「すまなかった」
 静かに紡がれた謝罪。カナはひくりと肩を震わせると、しばしの間を置いて返した。
「どうして謝るの」
「君を酷く傷つけてしまったと感じているから」
 それが心根からの言葉だと言うことは容易に察せられる。けれど、だからといってすぐに赦してしまうのには抵抗があった。脳裏を走ったあの日の光景――真実を知るまではこの思いにけじめがつかない。檄をくれた兄ときっかけをくれた義姉、その心遣いに応えるためにもと自分を奮い立たせ思い切って問う。
「どうしてそう思うの」
「どうしてって」
「答えて」
「それは……正直わからないんだ」
「わからない?」
 その瞬間、今まで抑えこんできたものが一気に堰を切ってあふれ出た。憤懣や悔しさや苛立ちそのまま、責めの言葉が次々連なる。
「何もわからないで頭を下げられるの? それって随分安い謝罪ね」
「そうじゃない。『これだ』と言い切ることはできないけど、就職してからずっと自分本位にやってきて、僕が君に酷い仕打ちを続けてきたって事は事実だろ。だからきちんと謝りたいんだよ」
「結局それって事の本質を分かってないってことじゃない。逐一省みる手間が惜しいから、総括すれば済むって言ってるように聞こえるわよ。男の人って随分都合のいい謝り方をするのね」
「違うんだカナちゃん。僕は本当に……」
 はっとした表情と途切れた言葉。半ばうがった考えに満たされた心は、いよいよ言い訳に詰まったのかと彼を罵ったが、直後握った拳にひやりと落ちた雫にそうではないことを覚る。
 あたし、泣いてるの?
 自覚はまったくなかった。懸命に押しとどめようとするが、感情の乱れをそのまま映したかのようなそれは、絶え間なくあふれ出して頬を濡らす。そうしてカナは己の行動を激しく後悔した。
 なにしてるのよあたし。
 求めてたのはこんなやりとりじゃない、知りたいのは、彼の本心ただひとつのはずじゃない。
 なのにまた重い沈黙を呼んでしまった。
 今度は誰の援けも得られないのに……。
 どうすればいいの、と暗い気持ちに落ち込んだそのとき、
「カナちゃん」
 ふと冷え切った頬に優しいぬくもりが触れた。大きな手のひらで顔を包まれ、混乱が穏やかに鎮まってゆく。
「今日僕がここへ来たのは、君と口論をするためじゃない。本当のことを知りたかったからなんだ。……君が僕を避け続けるその理由を」
 ぎくりと肩が強張る。
「薄々感じていたんだ、君の変化に。そしてそうさせたのはきっと僕なんだろうってことも察せた。だからなおさら、君の口から直接その理由を教えて欲しいんだよ。たとえそれが最悪の結末に繋がるものだとしても、僕は僕自身にしっかりしたけじめをつけさせなきゃならないから」
 頼むよ、とまっすぐに向けられた瞳。こんなふうに彼のまなざしを受け止めるのも随分久しぶりで、その時カナの中に小さな何かが灯ったような気がした。
 優しくてあたたかでほんの少し切ない――再会した頃と同じものが。
 そのせいだろうか、今まで躊躇っていたのが嘘のように言葉がするりと口をついて出ていく。
「あたしだって本当のことが知りたい。あなたがどうしてあんなことをしたのか、その理由を知りたいの」
 そう、知りたいのはあの時の真実。それさえ分かれば、きっとけじめがつけられるはずだ。
 彼が言うように、たとえどんな結末であれ。
「だからお願い、全部包み隠さずに答えて」
「あんなことって?」
「今年の2月、街で茶色の髪の女の子と一緒に歩いてたでしょ。楽しそうに通りから店を覗いてた。あたし、青葉本町(あおばもとまち)の交差点からそれを見てたの。あの子は誰?」
「女の子……」
 困惑に眉を寄せ、腕を組んで沈思する彼。しばらくすると、「ああ」と何か思い出したように天を仰いだ。
「それってもしかしてルイセのことかい?」
「ルイセ? 誰なの?」
「僕のいとこだよ。母方の伯父の娘でドイツにいたんだけど、今年の春からこっちの大学に編入したんだ。2月に手続きも兼ねて下見にきてたから、カナちゃんが見たっていうのはその時のことじゃないかな」
 思いも寄らない回答に、一瞬の間の後カナの顔からさっと血の気が失せる。
「ちょっと待ってよ。じゃぁあの時は、その子に街を案内して歩いてただけってこと?」
「そうだよ。伯父さんたちの家は日本(こっち)にもあるけど、大学からも近いし、もし一人暮らしを始めるんならこの辺りが住みやすいんじゃないかって。物価も安いし人情は篤いし、何かあれば僕のところにもすぐ来られるしね」
 ……え?
 なによそれ。
 至極きっぱりとした返答。真っ白になった頭の中に先刻の兄の言葉が鮮明に蘇る。
『真実は案外とるにたらないものなのかもしれないだろ』
 途端一気に力が抜けた。へなへなとソファにへたり込んで愕然とする。
 なんてあっけない真実なのだろう。勝手に誤解して、勝手に思い詰めて……距離を作っていたのは自分だったらしい。
 馬鹿みたいだわ、あたし。
「か、カナちゃん?」
 突然喉の奥で笑い出した自分を、恐る恐る覗き込んでくる顔をぎろっと睨めつけ、安堵したところで改めて湧き上がってきた怒りをそのままぶつける。
「じゃぁ、腕まで組んでたのはどういう了見よ。傍から見たらまるで恋人同士に見えるじゃない」
 するとあからさまにぎくりとした表情が返ってきた。
「それになんだか照れた顔もしてたわよね。いとこに何か言われたぐらいで、フツーあんな顔する?」
「ちょっと待ってくれよ、それってもしかして僕を疑ってるってこと?」
「だって1年も放って置かれて、いきなりそんな突飛な話を信じろって言われても。いとこのことなんか、今まで一度も聞いたことないし」
「そんな! 仕事が忙しかったのは本当だし、それで連絡出来なかったのを全部疑われたら、弁明のしようがないじゃないか」
「なんだ、結局言い訳をするつもりだったの? 本当のことが知りたいなんて言っておいて、その実自己弁護をしたいだけだったんじゃない」
 するするとよくもここまで雑言を吐けたものだと思う。でもこのぐらいやって当然だわ、と肯定する自分を自覚して少しだけうれしくほっとした。
「どうなの?」
 さて一体どんな顔して反論してくるのかしら、と意地悪っぽく挑発的に窺うと、彼はふっきれたような、そしてどこか決意したような表情を(おもて)に現した。
「……なら遠慮なく自己弁護させてもらうよ」
 言うなりズボンのポケットに手を突っ込み何か取り出すと、自分の右手を取ってそれを載せる。
「何よ、これ」
「見てのとおりの鍵だよ」
「どこの?」
「僕らの部屋」
 これまた予想だにしなかった言葉に、カナは度肝を抜かれて慌てて聞き返した。
「な、なによそれ。なんでそんないきなり」
「いきなりじゃないよ。就職してからずっと考えてたんだ。社会人として認められるようになったら、堂々と君と一緒に暮らそうって。だから一刻も早く実績を残したかった。有無を言わせず、君の兄さんに認めてもらえるようにってね」
「やだ、そんなこと考えてたの?」
「ああ。でも結局1年かかった。その間に自分の自惚れと青さも知った。それに向かい合ううちに改めて思ったんだ。僕にはやっぱり君が必要なんだって」
 情けない言い草だけど、と苦笑した彼に思わず涙が滲む。嬉しいのか呆れているのか、自分でもよく分からない涙だった。そうして滲んだ風景の中、手のひらにもうひとつ光るものを見つけて目を凝らす。それは鍵の根元にくくりつけられた小さな(リング)だった。
「これはなに?」
 銀色の地に宝石がひとつはめ込まれたもの。半ば呆けた頭のままで見やると、彼はそれを聞くのかとばかりに少しむっとした顔を見せた。
「それが証拠品だよ。ルイセが来たとき見繕ってもらったんだ」
「……は?」
「女の子の好きそうなデザインなんて僕には分からないしさ。そしたら思いっきりからかわれたよ。『そんな大事な彼女がいるの?』ってね」
 顔を赤くしてぷいとそっぽを向いた横顔に、改めて意味を察して頭を石で殴られたような衝撃に襲われる。
「……最悪」
「え?」
「ホント、最悪よ! バカっ!」
 信じ切れなかった自分。心弱さに負けた自分。あの時の情けなさが心底悔しくて、言葉の限りに己を罵倒する。
「うん。ごめん」
 それなのに謝ったのはまた彼の方だった。それがまた切なさを掻き立て、あとからあとから涙を生み出す。
 寂しかったよ。
 辛かった。
 でも、今はただ嬉しい。
 そうしてなだめるように頭に載せられた手。無言のそれが本当に優しく、本当に心地よく感じた。
「カナちゃん、あのさ」
 ひそりと囁かれた言葉に、目をごしごしとこすってひとつ頷く。そうして左手を取った彼が、鍵から外したそれ(、、)を薬指に通す――
「あ、あれ?」
 直後慌てた彼の声。確かに指には通った。それはいいが随分とサイズが大きく、軽く手を振っただけでも外れてしまいそうだ。
「ちょっと、これ何号って言ってた?」
「えっと……9号だったかな。店員さんはこのぐらいが標準だって言ってたけど」
 予想外の事態に青ざめ焦りまくる様子に、次の瞬間カナは思わず噴出す。
「ばかねぇ。高い買い物なのに、本人のいないところで始末つけようとするからそうなるのよ」
「ど、どうしよう」
「大丈夫、こういうのはちゃんと補正してもらえるから。渡されるときに説明されたでしょ?」
「そうだったかな……ともかくよかったぁぁ」
 長い息をついてほっとした顔の彼の額を、人差し指でちょんと小突いてやる。
「だから今度はちゃんと連れて行ってよね。男の見栄なんて、大概そーいうオチがあるもんなんだから」
 覗き込むと彼は「参りました」と短く答え、それに「よろしい」とふんぞり返って二人で笑いあう。
 ただそれだけ――向かい合って一緒に笑えることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。そんなふうに感じていると、突如玄関チャイムが鳴り響き、慌しく兄夫婦が帰ってきた。
「カナ! 大丈夫か!」
 買ってきたワインもそこそこに、駆け寄ってきた兄が浩隆を押しのけて肩を掴んでくる。
「何もされてないだろうな? 無事だな?」
「あ、兄貴どうしたの、そんなに怖い顔して」
「どうもこうも、復縁したらしたでコイツが感極まって押し倒したりしてないかと心配で……」
 思いがけずぎろりと睨まれた浩隆は、ジャスティナに逃げの視線を送って苦笑しきり。
「だったら最初から『仕込む』なよ」
 そうしてぼそりと報復の一言を呟いた。
「なによそれ。兄貴、もしかして片棒かついでたのね!」
「い、いやそれはコイツに頼まれて……」
 いいようにからかわれたと、顔を真っ赤にしてカナが二人に拳を振り上げる。わいわいと格段に賑やかになった空気に、ジャスティナは一人冷静に床に放り出されたワインを取り上げた。
「今日は楽しいお祝い会になりそうね」
 そうして見やる、義妹の薬指に光る銀色の環。
 俄然意気込みが増すのを感じながら、外したエプロンを再び手にしてキッチンに立つ。

 大切なものたちの笑顔を包むにふさわしい、そんな食卓を提供するために。

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