HIROKANA (らん) −The warmth that is lost−
「もう、2月も半ばか……」
 ひとりごち胸にたまった息を吐く。白く昇華するそれとは裏腹に、寂しさは体の奥底に重くとどまったまま消えることはなかった。
 その元凶たる彼――浩隆(ひろたか)を想い、再び胸に満ちたものを吐き出す。
 去年の春、在学中の論文を買われてさる企業に就職した彼は、会社の特別の計らいで学業も続けることとなり、職場と院を往復する二重生活を送っていた。
『厚意に甘えてばかりいるわけにはいかないよ』
 きっぱりと言い放ち、いつになく強い決意を滲ませた彼をサポートしようと、カナもできうる限りのことをした。バイトが終わると合鍵で彼の部屋にあがり、もろもろの片付けと食事の準備をして待つ。やがて玄関のドアホンが鳴ると、すぐさま駆けていって「お帰りなさい」と出迎える……学生の頃には滅多に見られなかったスーツ姿にちょっとどきどきしながら、通い妻よろしく、短いながらも新鮮な時間を過ごしていたのだ――秋の始まる頃までは。
『来月からプロジェクトチームに召集されることになったんだ』
 入社から半年が過ぎたある日、彼はそういって心底嬉しそうな顔をした。社会人として初めて認められたことを祝福する反面、カナは強い不安を覚えた。
 その予感どおり、午前様どころか何日も帰らない日が続く。どこまでいっても待ちぼうけ――けれども充実した様子をメールで伝えてくる彼には何も言えず、窓の外の移りゆく季節を眺めながら『無理だけはしないで』と常套句を繰り返す。この半月あまりはそんなやりとり自体も減り、最後に一緒に過ごしたのはいつだっけと、マフラーを貰った去年のクリスマスを思い出しては気持ちが沈みこむ毎日だった。
 いつから自分はこんなにも物分りがよく、そして諦めがちになったのだろうと思う。顔も見られぬまま他人行儀なやり取りに終始し、募っていく寂しさをひたすら内に押し込め虚勢を張る。
 以前の自分なら考えもしなかったであろう行動の数々。
 これが大人になるということなのだろうか?
 だとしたら学生時代とは時間の流れも環境も変わってしまった彼を、自分はこの先どうやって見つめてゆけば良いのだろう……。
 浮き立つ街のイルミネーションに、ひとり置き去りにされたような哀しさを助長され、先ほど送ったメールを思い出して携帯を確かめる。が新着メッセージが届いた様子はない。『おはよう』『おやすみ』すらも滅多に届かなくなったというのに、未だすがっている自分にカナは嫌気が差して顔を上げた。
 そのときだ。
「え」
 思わず目をみはる。一瞬心臓が止まったようにも思えたが、直後早鐘のように打つ音が耳のすぐ傍で聞こえ、これが夢ではないのだと知らしめられる。
 足を止めた直後、ちかちかと点滅して赤に変わった信号。その交差点の向こうに、黒いコートを羽織って眼鏡をかけた彼の姿があった。通りに並んだ店のショーウインドーを熱心に覗き込み、顎に手を当てて考え込んでいる様子だ。
 なんという偶然だろう、と途端に心が躍り表情が華やぐ。駆け出したい衝動を抑え、青信号を待ってゆっくりと踏み出す。
 しかしすぐさま動きが凍りついた。
 身を起こして何事か呟いた彼の陰から、明るい茶色の髪をした少女が顔を出す。歳は二十歳前後ぐらいだろうか、華奢な身体に白いダウンジャケットを着て親しげに腕を絡ませていた。ショーウインドーを覗き込み、薄紅の唇が一言二言発すると、彼はほんの少し照れたような笑みを浮かべてそれに応える。街の浮き立つ雰囲気に似つかわしいそのさま――カナは真っ白になった頭で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 …………
 …………
 ……え?

 空白のあと、たちまち押し寄せてくる疑問と猜疑(さいぎ)。


 なんで、ここにいるの。
 『妹がいる』だなんてあたし聞いたことないよ?
 ……まさか、ね。
 なに考えてるのよあたしってば。
 ひとかけら残った冷静さがそう諭すが、親密な様子の二人を前にとめどなく湧く黒い感情は、余計なことに気付かせ、余計なことを思い出させる。
 そういえば前部屋に入ったとき、かすかに残り香がしたことがあった。
 ほんとに少しだったけど、あたし小さい頃から鼻には自信があるのよ。
 あたしのお気に入りじゃない、もっと甘い香り……。

 …………
 …………
 メールを打っても返事が来なかったり。
 電話をしても出なかったり。
 応える暇もないくらい忙しいんだと思ってた。
 だから邪魔しないように一生懸命自分を抑えて。
 『もしかしたら』なんて疑いそうになる自分を軽蔑して。
 その繰り返しで自己嫌悪に陥って、それでもなんとか乗り越えてこられた。

 これが――同じ想いでいる証だと思ってたから。
 ぼやけ始めた景色の中、黒のコートに際立つ首もとの白。
 なのに。
 どうして……

 途端とてつもない吐き気を覚え、カナは口を押さえてきびすを返した。
 嫌だ。見たくない。
 心からそう思った。わき目もふらず、一刻も早くその場を離れようとひたすらに舗道を歩く。そうしてどこまで来たのだろう、赤信号で我に返り、交差点に集う人の波にまぎれて空を見上げる。
 どんよりとした暗い雲。もう晴れることはないだろうその間からとめどなく舞い落ちてくる雪が、あふれ出したもので何倍にも大きく滲んだ。

 最後の糧まで、奪い去ろうっていうの。
 そんなのひどいよ……


 頬に伝ったものを凍らせる寒風。静かに景色を覆い、肩に積もる冷たい花弁。
 容赦ないその仕打ちに、繋ぎとめていたはずのものが急速にぬくもりを失っていくのがわかった。


400字詰め原稿用紙換算 9枚

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