HIROKANA (まん) −I hang cold water to his conceit.−
「『似合わない』って言ったのよ、あの馬鹿」
 向かいの席に座る由梨亜(ゆりあ)に、カナは半ば吐き捨てるように言った。
「そういうことだったの」
 突然の呼び出しにとげとげしい言葉。それでも彼女のゆったりとしたさまは変わらない。怒りが少し収まって、自分を取り戻して浮き上がっていた腰を下ろす。そうして自分が身につけているものに視線を落とした。
 それはいつもと雰囲気の違ったコーディネート。濃茶のカシュクールのスカートに、トップスは暗めのピンクのカットソー。その上に羽織ったのは黒ベロアのジャケットだ。椅子の背にかけたマフラーに手袋、そして脇に置いたファーの付いたバッグ。さらに足元はブーツとくれば、まさしく『キレイ系』の代名詞というべき姿だ。
 このひと揃えにヒトメボレしたのは3ヶ月前。街で偶然見つけた秋の先行商品は、暫くの間通りに面したショーウィンドーに飾られていたが、次々と押し寄せる新作とうつろう季節の波に押され、いつの間にか店の奥のセール品棚へと移動してしまっていた。
 しかしカナにとっては逆に好都合だった。冬物に品が変わるまでの3ヶ月間、これらは誰の手にも渡ることなく、まるで自分を待っているかのようにあり続け、つい一週間前、倹約と増やしたバイトの努力を経てやってきた自分の手の中に収まったのだ。
 小さい頃からお転婆で、男の子に混じって泥んこ遊びをするほうが多かったためか、普段好んで身につけるのはジーンズや細身のパンツにシャツやパーカーだ。
 しかしながら、女性本来のおしゃれ心に久々に火をつけられたカナは、思い切って買ったそれを身につけ、今朝早く彼との待ち合わせの場所に向かったのだった。
 それが。
「着いたと思ったら、開口一番『そんな格好似合わない』よ? デリカシーのないのにも程があるわよ、あの唐変木」
 そう、待ち合わせ場所にいた彼――浩隆(ひろたか)は、カナの姿を見るなり露骨に不機嫌そうな顔をした。そして次の瞬間放たれたのは、琴線に触れる一言。
 今朝の言動を思い出し、再び湧きあがった怒りに、ぶすっと頬を膨らませる。
「それで、久しぶりのデートを放り出して来たの」
「当然の報いよ。折角のいい気分が、あの一言で台無しになったんだから」
 次々と口をついて出るのは、彼に対する不満の言葉。それをどこか楽しそうに見つめ、由梨亜は近くの店員を呼んだ。
「すいません、カフェオレとアッサムのミルクティーをひとつずつ、それからアップルパイをふたつお願いします」
 かしこまりました、と店員が離れていくのを待って、カナは少々不満げに彼女を見た。
「ねぇ由梨亜、あたしの話聞いてる?」
「ちゃんと聞いているわ。心配しないでどんどん話して」
 そう言いながら、レモングラスの香りのついた水を一口飲む。疑わしげな目を向けつつも、カナは押さえきれない憤懣を再び俎上に載せた。
「お世辞でもいいから、ひとこと『似合うよ』って言ってくれたらいいのよ。気の利いた台詞のひとつも言えやしないんだから、あの鈍感」
 怒りと悲しみを器用に半分ずつ滲ませながら言う。ほんの少し気持ちのバランスが崩れたら――悲しみが台頭すれば――きっと泣き出してしまうに違いない。でも、最後まで残った女のプライドが泣かせてくれない。
 由梨亜は、そんな微妙な女心の揺れの現れた表情に問いかける。
「カナちゃんは、浩隆さんがそういうことをお世辞で言っても構わないの?」
「そりゃ本気で言ってくれた方がいいに決まっているけど……たとえ気に入らなくても、最低限の礼儀ってあるでしょ?」
「礼儀って、そういう時のために使うものかしら」
 どこか挑戦的な言い回しに、カナはいささかむっとして返した。
「ねぇ由梨亜、あんた何が言いたいの? あたし回りくどい言われ方って得意じゃないから、どうせならはっきり言ってくれない?」
 ショックのあまり攻撃的になっている彼女に、由梨亜はいつもの柔らかい笑顔を向けた。
「カナちゃんは女冥利に尽きるなぁと思って」
 え、と心外な表情を浮かべた親友に、小さくため息をつく。
「だってそうでしょう? 浩隆さんぐらい精神的に成熟した男性が、突然そんな憎まれ口を叩くなんて、まるで小学生の男の子を見ているみたいで可愛くて。ほら、そのぐらいの年の頃ってよくあるでしょう? 大好きな女の子に振り向いて欲しくて、わざといじめたり、意地悪なこと言ったり。今の彼を見ていると、それとおなじだなって思えるの」
「まさか。いつも余裕綽々なあいつが、そんなはずないわよ」
「そんなことあるのよ。男の子って誰しも照れ屋だから、大好きな女の子が綺麗な格好をしていたりすると、素直に喜べないものなのよ。自信を持たせてしまったら最後、自分の事なんか眼中になくなって、どこか遠くの誰かのところへ去るんじゃないかって、きっと心配でたまらなくなるんだわ。……独占欲の裏返し、卑下と疑懼(ぎく)の飽和状態ね」
 そう言って微笑む彼女を呆然として見つめる。
「相手がすごく魅力的なんだって気がついて、自分がそれにそぐわないと思った瞬間、不安が高じて意地悪に変わる。……男の子でも女の子でも、そういう感覚は一緒なんじゃない?」
 店員が運んできたカップを受け取り、由梨亜はこともなげに続けた。白いカップが目の前に置かれ、カナがはっとして中身を覗く。
「これ、カフェオレじゃない」
「そうよ。さっき注文したとき、カナちゃん何にも言わなかったでしょう? だから、責任持ってそれを飲んで頂戴ね」
 にこにこと笑いながら反論を圧す彼女にそら恐ろしいものを感じる。しぶしぶカップを手に取り、香り高い液体を口に含んだ。
「カフェオレって、こんなに苦かったっけ?」
 砂糖なしというのもさることながら、カナは自分の味覚が変わってしまったのだろうかと、いぶかしげに眉を寄せた。
「そう? じゃこっちは?」
 そう言って差し出されたのはミルクティー。
「おいしいぃ」
 一口飲み下すと、ほぉっとため息と共に言葉が漏れた。ふんわりと優しい茶葉の香りが鼻腔をくすぐり、甘いミルクの味が甘露の如く広がる。柔らかく喉を潤すその味に心が和み、思わず表情が緩んだ。
「カナちゃん、前はコーヒー党だったのに。一緒に出かけると、いつもカフェオレを頼んでいたじゃない」
 テーブルの上で肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて由梨亜が微笑む。その言葉にどきりとして、カナはカップの中に視線を落とした。
「確かに昔はそうだったけどさ。この味に慣れてきたら、なんだかすっかり……」
 そこではっとする。何事かに気づいた様子に、彼女はゆったりと続けた。
「今まで見えなかった別の世界が突然目の前に迫ったら、誰だって一度は目を閉じてしまうわ。それは未経験の不安と恐怖に裏打ちされたごく自然な反応よ。でもその時少しでも心に引っかかるものがあったら、次の機会にはその世界を覗いてみようかなという気持ちになるでしょう? その探究心と好奇心があれば、知らない世界も、いつかはなくてはならない自然なものに変化していくはずよ」
 由梨亜はそう言ってケーキ皿のそばに置いてあったフォークを手に取った。
「アップルパイを食べるとき、飲み物はどうしようかなって考えたら、今の浩隆さんならきっとミルクティーとりんごの組み合わせを選ぶわ。柔らかい甘みと酸味の融合、そのほうが長い間慣れ親しんで心地よいはずだもの。でも、カフェオレの奥深さを知ってしまったら、シナモンとカフェオレの相互作用も理解できるようになる。……刺激って、そういう見えない世界を広げるためにあるんじゃないかしら」
 フォークにパイをひとかけ刺し、由梨亜は悠然とそれを口に運んだ。続いてミルクティーのカップを口元に寄せる。
「ん、美味しい」
 満足げな笑みが返ってくる。
「だから、カナちゃんも再挑戦してみて。たった一度の味見だけで嫌いになるなんて、それこそもったいないわ」
 促され、フォークを手にしてパイに突き刺すと、ひとかけ口に運んだ。そして続けざまにカフェオレを飲む。甘煮のりんごに絡む刺激的な香りに、ミルクで幾分か和らいだ深い薫りが絡んで、えもいわれぬかんばしさが鼻の奥にとどまる。
 確かに、研究の余地はありそうね。
 自己完結するようにうんうんと頷くカナに、由梨亜はやれやれと言った風に身体を少し起こした。
「今頃、浩隆さんはとてつもない焦りと探究心に支配されていると思うわ。次にメールが来るとき、今度はカナちゃんが憎まれ口を叩く方に回るかもしれないわ。……そうなる前に何か手を打たなきゃね」
 悪戯めいた視線を向けてきた由梨亜に、もう一度カフェオレのカップに手を添えて中を覗き込む。
 刺激、ね。
「ねぇ、由梨亜」
「なぁに?」
「今日これから、買い物に付き合ってくれない?」
 何のために、などと野暮なことは聞かない。由梨亜は「よろこんで」と答えた。
 こういうときの女同士は、まるで魔法でも使っているかのように、考えていることが相手に伝わる。
 男性には一生理解できないだろう、ときに超自然的で不思議な疎通と共有。
 だから、女はやめられないのだ。

 それと同じくらい、この驚かし合いもやめられない。


400字詰め原稿用紙換算 12枚

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