HIROKANA (はく) −I love you, but it means defeat!−
 携帯の液晶に表示された番号と名前に、浩隆は正直ぎくりとした。
 まるで閻魔大王の前に引きずり出される罪人に似た心情。どうしたものかと打算的な策も練ってみるが、あせりを抱いたままでは当然思いつくはずもなく、彼は半ば諦めて電話を取った。
「Guten Tag! Wer ist es?(もしもし、どちらさまですか?)」
『相変わらずだな。伯父さんの影響だとはいえ、いい加減日本人らしくしたらどうだ。番号間違ったかと思うだろ』
 学生の頃出会ってから、もう何度となく聞いた声。あの頃となんら変わらない親友の切り出し方に、浩隆はひととき冷静さを取り戻す。出来ることならこのまま穏便に済ませたいところなのだが、と思いながらも、彼はあえて墓穴を掘ってみることにした。
「やぁ英一。電話なんて久しぶりじゃないか。前に話したのはいつだった?」
『半年ぐらい前にはなるな。最近メールのやりとりばかりだからな、たまに声を聞かないと本当に生きてるかどうか分からないだろ。今は昔みたいに、便りのないのは元気な証拠って限らないしな』
 なんとも古風な引用が返ってくる。自然に笑いがこみ上げてきて、浩隆は思わずふきだした。くだけた雰囲気の中、しばらくお互いの身の回りの状況を報告しあい、省庁の様子や手がけている研究のことで話が盛り上がる。高校時代の、若さと勢いに任せた荒々しいやりとりなどはめっきり減り、穏やかながらも説得力を持って圧す表現に代わった会話に、浩隆は自分たちの年齢を改めて感じた。
『ところで、ヒロ』
 その感慨をふと途切らせ、彼が声色を瞬間的に変えた。それは国家吏員としての彼の有様をひととき覗わせ、浩隆に国家の体現を感じさせた。
『ちょっと聞きたいことがあるんだ。すまないがオレの家に来てくれないか』
 心のどこかで予測していた台詞に、浩隆も用意していた台詞で応える。
「いいや、むしろ俺の方から行かなきゃならない。今から行くから、少しだけ待っててくれないか」
 何事かを決意したような声色に、受話器の向こう側で英一が沈黙する。
『わかった。じゃぁ待ってる』
「ああ」
 電話を切り、浩隆はぐっと表情を引き締め、そのまま携帯を握り締めた。
 (きた)るべき、勝負の時が来た。
 直接対峙するこのときを逃せば、きっと自分は彼に一生認めてもらえないに違いない。
 男と男の真剣勝負。相手は、誰よりも手強い己の親友だ。
「行くぞ」
 ぱんと頬を叩いて気合を入れ、浩隆はクロゼットに向き直ると、その隅にかけていたおろしたてのスーツを手に取った。

+++++++

 土産代わりのロゼワインを携え、浩隆は英一の住むマンションを訪れた。1階のエントランスで彼の部屋に連絡を入れ、返事を貰うと、ロックの解除された自動ドアをくぐりエレベーターに乗り込む。やがて7階に至ると、703号と刻印された扉の前に歩み寄ってしばしたたずみ、緊張した面持ちでネクタイをもう一度締めなおした。
「よし」
 自分に気合を入れ、呼び鈴を鳴らす。はい、という返事のあと、しばらくして英一がドアを押し開けた。
「よ」
「急に押しかけてすまない。これ、土産」
「いつも悪いな。まぁ、上がれよ」
 どことなくぎこちないやり取りに、浩隆の緊張は一層高まった。いざなわれるまま、英一に続いて家に上がる。玄関に置かれたスリッパを履き、親友の背を追って進むが、ふと家の中が思いのほか静かなことに気がついた。
「英一、ジャスは?」
 土曜のこの時間にならいるはずだろう彼の妻。その姿が見えない理由を問うてみる。英一は浩隆に背を向けたままで答えた。
「彼女はさっき出かけたよ。買い物を思い立ったっていうんでね。2、3時間は帰ってこないと思う」
 突然『思い立った』わりには随分長い外出だなと思ったが、それを口に出す余裕など浩隆にはなかった。全身の筋肉がこわばり、確かめることは出来ないが、きっと表情も凍り付いていたに違いなかった。
 窓の大きな広いリビングは綺麗に片付いていた。まるで舞台をあつらえられたかのようなその静けさに、かすかに震えが起こる。それを無理矢理武者震いだと思い込むことにし、浩隆は思い切って親友に声をかけようとした。
「なぁ、ヒロ」
 だが、先手を打ったのは英一だった。こちらに背を向けたままで続ける。
「頼みがある」
 彼にしてみれば、それは自分に対する最低限の礼儀なのだろう。そして同時に最後の(たが)であるに違いない。浩隆はわざと挑発気味に、しかも平静さを装って答えた。
「なんだ」
「一発、殴らせろ」
 この瞬間、浩隆は『外れた』と思った。立ち上る憤怒をたたえた声色に、浩隆は覚悟を決め、眼鏡を外してスーツの内ポケットにしまう。
 途端英一がすばやく身体を翻し、浩隆の眼前に迫った。
 右手の拳が強く握られ、轟と唸って空気を切り裂く。まるで岩と岩がぶつかったかのような音がした直後、左頬に重い痛みが走った。目の前で火花が散り、衝撃で脳が激しく揺さぶられる。
 右手を振り切った体勢で、英一はしばらく微動だにしなかった。それが自分の気概の度量を推し測っているような気がして、浩隆もまた倒れるわけには行かないと、崩れそうになる膝を必死で踏ん張り、歯を食いしばって立ち続けた。
 それはまるで男の意地比べ。泥臭く、ある意味では最も醜いせめぎあいだった。どのぐらいの時が過ぎたのか、ふっと場の空気が和らいで、英一が浩隆の脇をかすめキッチンへ歩いていく。蛇口をひねる音と共に水がシンクを打つ音がして、浩隆はやっと緊張から解放された。
「ヒロ」
 名前を呼ばれてとっさに振り向く。その顔に、絞ったタオルが投げつけられた。
「腫れてくるかもしれない。冷やしとけ」
 自分で殴っておいてよく言えたものだ。苦笑しつつもそのタオルを受け取って頬に当てる。ずきずきと疼く、熱を持った頬に、冷たいタオルの感触が心地よかった。
「ついでに氷袋もお願いしたいところなんだが」
 少々遠慮がちに浩隆が英一をうかがう。その表情に、英一は答えた。
「そいつはできない相談だ」
 返された言葉に浩隆は苦笑し、諦めた表情を見せる。
 英一はそれを見やると、やかんを火にかけもてなしの用意をはじめた。

+++++++

 かぐわしい紅茶の香り。自分が好きな茶葉を、親友は覚えていてくれたらしい。その心遣いにほっと心が和んだ。
「いつだったんだ」
 ソファに腰を下ろした英一の唐突な質問に、口に含んでいた熱いダージリンをごくんと飲み下す。
「な、何が」
「お前が妹に惚れたのが、だよ」
 それよりもいささか踏み込んだ部分を考えていたため顔が赤くなる。狼狽を悟られたくなくて、一度降ろしていたタオルで再び頬を押さえ、半分顔を隠しつつ答えた。
「お前に紹介されたときだよ」
「それって高校のときじゃないか。そんなに昔から目をつけてたのか」
 驚いた上に少し複雑な表情の英一に、ぶすっとむくれた顔を向けて続ける。
「ああそうだよ。初めて紹介されたときからずっと気になってた。でも彼女もてそうだったし、俺はあの頃、自分に絶対的な自信があったわけじゃない。何より彼女の兄貴がお前なんだから、口にするのをためらって当然だろ」
「それでオレの目が離れた隙を狙ったってわけか? あいつがお前と同じ大学に入ったって報告したとき、興味なさそうな顔してたくせに。まったくとんでもないポーカーフェイスだ。この悪党、外道」
「なんとでも言えよ。でもどんなに糾弾されようと罵倒されようと、お前が彼女の兄貴だってなんだって、俺は絶対に諦めないからな」
 鋭く自分をにらみつける英一の瞳に、浩隆は精一杯の勇気を振り絞って立ち向かう。
 虚勢にも似たものの裏側にはびこるものに、浩隆は自分の情けなさを痛感した。高校時代、自分が唯一勝てないと思わされた男の妹を、何が何でも奪い去って逃げねばならないというのに。そうはさせまいとする彼の気迫に、自分はいつまで慄いているのだ。
「覚悟は、出来てる」
 それは自分に向けた叱咤でもあった。ぐっと唇を噛み締め挑みかかるような視線を向ける。
 そんな親友の気概を受け止め、しばらくにらみ合った後で英一はふっと気を殺いだ。
「バカが。俺に気兼ねする必要なんかなかったんだ。俺はあの時、むしろお前にならと思ってアイツを紹介したんだ。下手なヤツより、お前の方がずっと見込みがあるって思ってさ。なんでさっさと俺に言わなかったんだよ。そしたらいくらでもお膳立てしてやったのに。……まったく、完全犯罪も成しうる知能犯のくせに、最後の最後でいらん遠慮をするんだからな。まったく呆れるくらいのお人よしだ」
「お前それでも彼女の兄貴か? 普通は『妹に手を出すな』とかなんとか言うもんだろ」
「ウチの場合は逆なんだよ。あのお転婆を押さえ込めるんだったら喜んで差し出すね。もう俺の手には負えないからな。だとしたら誰か他の人間にやらせるしかないだろうが」
 はぁと気のない返事を返し、浩隆は疲れたようにがっくりとうなだれた。
「それにしてもお前、報告遅延にもほどがあるぞ。付き合い始めてもう1年だろ? 今まで何度となく会う機会があったのに、ことごとく黙っていやがって」
 既に情報は駄々漏れということか。浩隆はむっつりとして答えた。
「悪かったと思ってるよ。でも、それをお前に言われたくないぞ。いや、むしろお前の方が展開が早すぎるんだ。出会ったその場でプロポーズ、次の日に入籍の報告なんて、ジャスティナがいい子だったからよかったものの、突拍子がないにもほどがある」
 自分たちより6つも年下の、可愛らしい親友の伴侶。幾分かの羨ましさと冷やかしを含ませ、びしっと人差し指を突きつけ糾弾する。
「それこそ余計なお世話だ。俺は彼女ならと思ったから素直にそれを伝えたまでだ。それに、彼女が断るはずがないとも思ってたしな」
 まるで根拠のない自信。そのレベルまで達すれば大したものだと浩隆はあきれ返った。
「ヒトメボレってのは、そのぐらいの自負がなきゃ出来ないもんじゃないのか。……俺もお前も、裏を返せば自信家だってことだろ」
 親友の言葉に、思わず苦笑いが漏れる。
倉林(そうりん)学園の双頭の鷲が、実はただの惚れっぽい男だったなんて知ったら、皆どう思うのかな」
 少なくとも自分たちのあの頃のイメージは崩れ去るに違いない。学園の高みで互いの理性を競い合ってきた自分たちが、最も本能に則した恋をしているとは、なんとも世界は面白い。
 ひとしきりの笑いがリビングに満ち、二人の間に和やかさが戻ってきた。
「なぁ、ヒロ」
「ん?」
「ひとつ、頼みがあるんだが」
 英一が至極真面目な顔を向けてきた。カップをテーブルにおいて浩隆はその視線を受け止める。
「カナは俺のたった一人の妹だ。だから、出来ることなら幸せになってもらいたい。……お前ならそうしてくれると、俺は信じている」
 随分重い期待をかけてくれると思いながら、浩隆は英一を見つめた。真剣そのもの、心から妹の幸せを願う兄の瞳に誓いを返す。
「約束は、守るよ」
 だから、という続きを飲み込んで、ただ彼に向かって頭を下げる。それが何を意味しているか、英一もそれを理解しながら口には出さなかった。代わりに、テーブル越しに右手を差し出す。顔を上げて力強く掴み返し、二人はがっちりとした握手を交わすと、まるで高校時代に戻ったかのような明るい笑顔を見せた。
 そのときだ、玄関の鍵を開ける音がして、扉が静かに開かれた。
「ただいま」
「兄貴ィ、遊びに来たよ!」
 二人の女性の声に同時にそちらを見やる。スリッパの音が近づいてきて、リビングの入口に彼女らが姿を現した。
「よう、急にどうしたんだ」
 その場所に呆然と立ったままの妹に、英一が声をかける。はっと我に返って、カナは口を開いた。
「な……なんでここにいるの」
 驚くのも無理はない。一応兄には隠しているつもりだったのだ。もしかしたら既に気づいていたのかもしれないが、追及されないことをいいことに、自分から口にしたことはなかった。呆然とはしたなく口をあけたままのカナに成り代わって、隣に立っていた女性――英一の妻であるジャスティナが答える。
「今日はカナちゃんもアルバイトがお休みだって言うから、お夕飯でも一緒にどうかなと思って誘ったの」
「そうか。こっちは今、コイツに申し入れをさせてたところだったんだ」
 思いがけない兄の台詞に、カナは慌てて浩隆を見た。
「了解は貰ったから。少々きついお仕置きを受けたけどね」
 そういった彼の左頬が赤くなっているのに気づき、カナはさぁっと青ざめて腰を抜かしそうになった。が腕をつつく感触に、傍らに立った義姉を見る。
「良かったね、カナちゃん」
 可愛らしい笑顔と祝福。カナはじわりと湧き上がった涙をごまかそうとして、彼女にぎゅっと抱きついた。言葉もない義妹に、ジャスティナも背中に腕を回す。
「浩隆さんなら大丈夫。だって英一さんの大親友ですもの」
 耳元で呟かれた言葉に、カナははっとして覗き込む。
「知ってたの?アイツのこと」
「半年ぐらいも前かしら、英一さんに紹介されてね、それから度々ここへきていたの。内緒にしていてごめんなさいね。……そうだわ、今朝作って置いたケーキがあるからから、お祝いがてらみんなでお茶にしましょう」
 カナから視線を外し、満面の笑みでこともなげに言うジャスティナ。カナはこのときはじめて、義姉が兄よりも数段恐ろしいのではないかと思った。
「じゃぁ、折角だから台所借りてもいいかな。僕がお茶を入れるよ」
 突然立ち上がった浩隆の申し出に、ジャスティナはにこりと微笑んでどうぞ、と女の聖地を彼に譲った。
 その間にカナは英一の向かいに腰を下ろす。先ほどまで浩隆が座っていた場所のすぐ隣だ。
「あ、兄貴」
「なかなかお前が言い出さないもんだから、こっちから先に聞いてやったぞ。まったく、ばればれなのにいつまでも黙ってるヤツがあるか。気づかぬふりをするこっちの身にもなれよ」
 そう言って英一は妹の額を軽くつついた。
「それにしてもお前、もうアイツを尻に敷いてるのか。流石だな」
「は?」
 どうやらわかっていない様子の妹に、中身を飲み干したカップを渡し、半ば押しやるようにして台所へ向かわせる。やれやれとソファの背に身体をもたせかけると、隣にジャスティナが腰を下ろしてきた。
「さすが、我が家の策士殿」
 なんのことかしらとジャスティナはそ知らぬふりをして笑った。やり手の妻にほんのりとした苦笑を向け、英一は台所に立つ親友と妹をうかがいみた。
「残念ながら、亭主関白は望めそうにないな」
 先ほど自分と話していた口調から、一瞬にして変わった浩隆の口調に、英一は妹の肝っ玉ぶりを見せ付けられたような気がした。いつまでたっても、妹はおとなしくなりそうもないなと、半ば諦めのため息をつく。
「家庭円満のコツは、女性がしっかり手綱を握ることにあるのよ」
 至極当然に言い放った妻に、英一は驚いた表情を見せた。
「クォーターの君から、そんな和風の格言を聞くことになるとは思ってもみなかったな」
「あら、これは万国共通だと思うわ。私の場合は少し、日本の思想寄りかもしれないけれど」
 歯切れのいい答えを返してきた妻に、英一は諸手を上げざるを得なかった。こういう時の女性は、どんな学者よりも英知に勝るのだと痛感する。
 惚れた弱みに起因するのなら、それも仕方ないか。
 自分のことは棚に上げ、英一はそんなことを思う。
 顎に手をやり嘆きと喜びを同時にこらえるさまは、まるで娘を嫁にやる父親のそれであった。


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