HIROKANA (やく) −Medicine of magic−
  ぴ、ぴ、ぴ。

「……どれ」
 表示された数値を確認し、頷いて体温計のスイッチを切る。それから彼女は手を伸ばして僕の額に触れた。水仕事でもしていたのだろうか、ひんやりとした感触が気持ちいい。
「もう心配ないわね」
 ほっとしたような声に、「迷惑をかけてすまない」とわびをいれるより先にたたみかけられる。
「まったく、いい歳して自分の体調管理もできないでどうするのよ。ほんといつまでも子供なんだから」
「悪かったねいい歳で」
 痛いところを衝かれ、彼女に背を向けてふてくされた台詞を返す。はいはいとあしらう声の後、ラグを擦るスリッパの音が遠ざかっていった。
 秋が始まってまもない季節。僕は思いがけずベッドに縛られる羽目になった。 夏の間じゅう、学会に向けて埃っぽい研究室に篭っていたのが原因だろうか。発表原稿の清書を終えた達成感を味わったのもつかの間、構内で倒れ救急車で運ばれた自分に、診療所の医師は『風邪』というなんとも味気ない診断をくだした。
 タクシーに揺られて家につき……おそらくそのままベッドに倒れこんだのだろう。次に気が付いたときには氷まくらと氷嚢で冷罨法(れいあんぽう)され、目の前に覗き込むカナの顔があった。誰かが連絡してくれたのか、彼女がいつやってきて、どうやって僕を着替えさせたのか。考えただけで恥ずかしいやら情けないやら。
 ともかくもそれから3日あまりが過ぎ、看病のおかげで頭痛と高熱は治まり、日がな一日寝ているのにも飽きてきた。
 開いたままの扉の向こうから、水がシンクを打つ音が聞こえてくる。なんとなしにそれを聞きながら寝返りを打ち、かいがいしく世話を焼いてくれた姿を思い出す。ほぼ徹夜で額のタオルを取替え、定時に熱を測り、水分補給に飲み物を用意するそれに、亡き母の姿が重なったのは今朝のことだった。
 額に当てられた手に眠りから覚め、思わず「母さん」と口走ろうとした自分に気付いたのだ。年齢はもちろん、外見などもまったく違うタイプの彼女を何故そんな風に思ったのか正直複雑な気分だった。
「なにおかしな顔してるの」
 ぎくりとして我に返ると、彼女がいつのまにか盆を手にして立っていた。
「もうお昼過ぎたけど……起きられる?」
「え、ああ」
 狼狽を何とか押さえ込み、平静を装って少しだるい上半身を起こす。その途端唸った腹の虫に、彼女がぷっと吹き出した。
「やっぱりね。熱も下がったし、そろそろ何か食べたい頃なんじゃないかと思ったの」
 そう言って膝に置かれた盆には一人用の土鍋が乗っている。いかにも熱そうな蓋を取ると、もうもうとした白い湯気とともに、ふんわりとふくよかな香りが立ち上った。
 真っ白な粥。水分と果物以外では久しぶりの食事を前に、思わずつばを飲み込む。それを予測していたかのようなタイミングでどうぞ召し上がれと促され、渡されたれんげを雪原に差し入れてひとすくい口に運んだ。
「あまい」
 飲み下してほっと息をつくとともに素直な感想が口をついた。米と水、それだけのはずなのにひどく懐かしい味がする。驚く僕に彼女はにこりと笑いかけてきた。
「ちゃんとお米から炊いたんだからおいしくて当たり前。味付けは最後にほんのひとつまみ塩をかけただけなのよ」
 へぇ、と気のない返事をしてもうひとくち口に含む。存外に弾力が残った米粒は、数日のうちに鈍った味蕾(みらい)にやさしく触れ、久しぶりの味覚と滋養を脳に伝える。
「うまい」
「でしょう? 小さい頃あたしが風邪をひくと、いつもお母さんがこれを作ってくれたの」
 その言葉にはっと思い至る。癒す基(もとい)、そこにはいつも母のぬくもりがあるのだ。決して揺らがぬ不動の愛情、それはまさに『万能薬』であり『万能調味料』というわけか。
「お母さんと同じぐらい愛情込めて作ったんだからね。それ食べて早く元気になってよ」
「……へ」
 思いもよらない台詞に、呆けた顔を上げたときには彼女はこちらに背を向けて部屋を出て行くところだった。最後までその表情を確かめることができず、すっかり食事に夢中になっていた自分を悔やむ。
 けれど、そっけない背中とは裏腹に、ほんのり赤く染まったうなじが目に入って猛烈に嬉しくなった。そそくさと出て行く彼女を見送り、残った粥を急いで平らげると腕を組んで考え込む。
「さて、どうしたものか」
 栄養を吸収し冷静さを取り戻した脳は途端に活動を再開する。次々と回路を巡る打算と純真な想い。しかし巡り巡った思案の末に至ったのは呆れるほどに単純な結論だった。
『もうすこし、風邪をひいたままでいよう』
「うん、それがいい」
 至った結論を自信満々に後押しする自分。学内に『冷徹』の名で知れた男が、何を子供じみたことを大威張りでひらけかして――イメージとしてはそんな感じで――いるのだか。
 まずい。
 まずいぞ。
 これは再びやってきた自我崩落の瞬間だ。
 彼女と初めて会った高校時代に、そして再会した後にも同じものを感じた。意識的に目を背けていた、あるいはまったく自覚していない自分の側面を、張り手よろしくばちんと頬に叩きつけて自覚させられる衝撃。しかもそれをあっけらかんと、開き直りとも言える方法で受容させる……そんな効果てきめんな魔法の薬を、彼女はどこから手に入れているのだろう。
 きっと、さっきの粥にもふりかけたに違いない。
 ほらまた、と空想に浸りかかった自分に気がつく。
「次から次へと……弱ったな、骨抜きになりそうだ」
 万病をも癒し心身を緩やかに広げる『薬』。と思えば致命傷を与え後悔の海に沈める『劇薬』。
 その両方の性質を内包した『異性』という存在。
 まだまだ色々なものが潜んでいる気がする。
 自分の内と同様に、じっくりと腰をすえて研究してみるのがよさそうだ。


400字詰め原稿用紙換算 8枚

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