HIROKANA (なみだ) −Once-in-a-lifetime−
 日曜の夜。
 最近、部屋に来ることが多くなった彼女。
 二人で囲む食卓。
 そして箸を手にしたまま、動かない気配。
 彼女の作ってくれた夕食に箸を伸ばしながら、僕はちらりと彼女を伺った。
 そして自分も凍りつく。視線が釘付けになって、そこから目が離せなくなる。
「カナちゃん?」
 おそるおそる名をを呼んでみるが、彼女はしばらく反応を示さなかった。液晶テレビの画面に映し出される光景に食事も忘れて見入っている。
 それだけならばいつものことだ。彼女は一度テレビ番組に夢中になると、他の事がおろそかになるという癖の持ち主だ。だから特にも食事時は、できるだけテレビをつけないようにしている。とはいえ日曜のゆったりとした時間の中なら、食事に時間をかけたってかまわないと、夜――洋画を放映しているこのときばかりは食事中の鑑賞を解禁していたのだ。
 けれども思いがけないものに遭遇して、逆に僕の動きが止まってしまう。そんな視線に気づいたか、彼女は突然我に返るとそそくさと立ち上がって、スチールシェルフの上のティッシュ箱に向かっていった。こちらに背を向けたままごそごそと何事かをしている彼女の背中を、僕はただ見つめているしかなかった。
 やがて大きなため息をついて振り返った彼女と視線がぶつかる。こちらが我に返ったと同時に、彼女の顔が真っ赤に染まった。
「な、なによ」
「いや、その……なんていうか」
 初めての経験だったのだ。彼女の涙に遭遇するのは。
 彼女は姉御肌だと周りから言われている。それゆえか、どんなに悔しくてもどんなに哀しくても決して泣いている姿を見せない。とはいえ決して涙を浮かべないわけではないのだ。けれども、それを指摘しようものならムキになって激しく反論される。ウサギみたいに両目を赤くしているくせに、空を仰いだり、出もしないあくびをしてみたり、そうやっていつも涙をごまかしている。
 格好つけで強がりな彼女。その彼女が憚りもなく自分に涙を見せたのだ。今まで何度となく、『感動の超大作』と呼ばれる映画を見てきたが、こんなことは初めてだった。
「えっと……何にそんなに感動したのかなと思ってさ」
 彼女のプライドを傷つけないように言葉を選びながら、それでも興味を抑えきれずに僕は聞いた。涙をぬぐったあとのティッシュをくしゃっと丸めて彼女は答えた。
「だってやっと最後に共通の幸せを見つけられたのよ。心は純粋な男の子のまま、身体だけ大人になった男性と、辛い経験が邪魔をして、どうしても踏み越えられない壁にもがいてた女性が、お互い最後に行き着いた唯一の安らぎの場所が、子供の頃一緒に過ごした思い出の中だなんて、こんなにステキなことないじゃない。どんなに喧嘩しても、どんなに遠く離れていても、魂が帰りたがる場所が二人ともおんなじって、それって二人だけの不変の約束みたいに思えない?」
 ロマンティシズムな言葉が返ってくる。どんな現実に苛まれようとも、犯されがたい不変のもの。疲れた身体を癒し、すさんだ心を慰める場所。そんな共通のものを、長い年月と紆余曲折を経て悟った二人――女性はそういう恋にあこがれるのだろうかと、意味もなく映画に嫉妬を抱く。
 こういう場でもうすこし気の利いた台詞がいえたなら、彼女の視線を映画の世界から現実に引き戻すことができるのだろうか。そうすれば、映画のロマンチックなストーリーもいいが、現実だってそんな捨てたモンじゃないと胸を張っていられるに違いない。それが出来ない自分にほんの少し幻滅する。
 けれどその一方で僕は得意になっていた。なにせ彼女が初めて人前で見せただろう涙。それを僕が独り占めしたのだから。
 その涙は僕の前だから流したんだろ?なんて高慢な質問を投げかけたくなる。彼女が「そうよ」なんて素直に言ってくれやしないとわかっているけれど、それをどこか願っている自分も案外ロマンティストなのだなと思う。
「何百面相してんの」
 彼女がいつもの毅然とした表情で僕を覗き込んだ。もう涙の彼女はなりをひそめてしまったらしい。もうすこし鑑賞していたかったのになと思ったが、それを口にすればきっと平手打ちを食らうだろうと思って憚った。
 テレビに視線を移せばもう既に映画は終わっている。これだから食事時にテレビはご法度なのだ。
「もたもたしてないで早く食べちゃってね。片付かないから」
 よく言えたものだ、さっきまで箸が止まっていたのはだれだっけ?そう苦笑して箸を伸ばそうとしたとき、ふとさっきの彼女の泣き顔がフラッシュバックした。今更ながらそれを意識して心臓が大きく跳ねる。
「やばい」
 ボソッと口にして皿の向こうのビール缶を手に取ると、残りを一気に飲み干した。アルコールが身体に回って、鼓動が余計に早まる。空いた皿を片付ける彼女の指先の動きや、シャツから覗くほんのりと火照った鎖骨の辺りなんかがやたらと気になり始め、たとえようもないものが自分を飲み込もうとしているのがわかった。湧き上がる気持ちに、自分の本心を改めて思い知らされる。
「カナちゃん」
「何よ」
 なおざりに返事をして皿を持ち上げようとしていた手首を、僕は半ば強引に掴んで制止した。驚いて声も出ない彼女に、抑制などまったく効かなくなった感情をそのままぶつける。
「好きだ」
「…………え?」
 なんて言ったの?と怪訝な顔をした彼女に、駄目押しの一言を浴びせる。
「君が好きなんだ」
 途端、彼女の瞳に一旦はなりを潜めていた涙が再び満ちた。瞬く間にあふれ出したそれが頬を伝わる。
 彼女の泣き顔を見つめながら、僕は複雑な感情を抱いて肩から力を抜いた。渦巻いているのは、やっと気持ちを言葉にできたという達成感と、それでもそこに至るまでにアルコールと映画の雰囲気の力を借りなくてはならなかった自分のふがいなさへの自己嫌悪。けれどもそれらを総じても、僕は彼女に言ったことを後悔だけはしていなかった。彼女が見せてくれた涙に僕も応えねばならないという、それは一種の男のプライドのなせる業だったのかもしれない。
「カナちゃん」
「何のつもりよ。そんなに女の子を泣かせて楽しい?」
 非難混じりに強がる彼女に、僕は更なるいとおしさすら覚えた。
 もうどうやってもこの気持ちが止まらないというのなら、僕はいっそ前に一歩踏み出したいと思っている。
 今までは言えなかった一年越しのその気持ちを伝えるつもりで、僕は立ち上がると彼女の身体を引き寄せる。

 どうか応えて欲しい。


 映画の主人公と同じ切なる願いを胸に、僕は彼女を包む腕に更なる力を込めた。


400字詰め原稿用紙換算 9枚

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