HIROKANA (かん) −Administrative guidance−
 PCのディスプレイから視線を外し、フロアの真ん中に位置する柱を見やる。そこに掛けられた時計の針は午後10時を回っていた。
 もうこんな時間か。
 そろそろ帰ろうかと思った丁度そのとき、内ポケットに入れていた携帯が震えた。残っているのは自分ひとり、憚ることなく携帯を取り出すと、折畳式のそれを開いて着信を確かめる。
 妹からのメールが届いていた。なんの用だろうといぶかしげに思いながらも、とりあえず本文に目を通す。どうやら何時ごろ帰宅するのかということを問いたいらしかった。仕事は区切りがついているし、『そろそろ帰る』と返信する。
 デスクの上の書類を片付け、しばらく待つとまたも携帯が震えた。机の下から通勤用の鞄を取り出し、再び携帯の液晶に目を落とす。
 『これからそっちに行くから』
 きっぱりとした宣言。普段からなにかと突拍子もないことを言い出す妹だが、短い文にいつもとは違った気迫を感じる。先程退庁間際の同僚たちに、「飲みに行かないか」と誘われていたのだが、今となっては断りを入れておいて正解だった。
 『なら、いつもの場所に10時半待ち合わせだ』と打ち込んで送信する。
 妹の様子がおかしい。なにかあったのだろうかとひととき考え込むがすぐに思い直した。ともかくも会わなくては真相は分かるまい。机の上の鞄を手にしフロアの明かりを消すと、いささか早足で庁舎を後にした。

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 午後10時30分。
 待ち合わせの時間だ。つい数分前に列車が着いたため、降りてきた人々が改札口に殺到している。駅前の喧騒の中、カナは兄の姿を探した。
 しばらくして人の波が街へ散って行くと、改札から出てくる兄の姿がやっと見つかり、カナは大きく手を振って合図した。
「どうしたんだ突然」
 スーツ姿の兄――英一(えいいち)は、昨年大学を飛び級卒業し、今春『霞ヶ関』に入省した。官僚(キャリア)としての第一歩を踏み出してもう三月ほどが経つ。世間ではとやかく言われる類の仕事であろうが、毎日精力的に働く兄をカナは心から尊敬している。
 けれども、それとこれとは話が別。
「アニキ、ちょっと話があるんだけど」
 自制してはいるのだろうが、隠し切れない怒りの滲んだ妹の表情に、抱いていた疑問が余計に深まり、英一は眉をひそめた。
「まぁ、立ち話もなんだし、部屋(ウチ)に来いよ」
「いいの?」
 強気で押しかけてはみたものの、いざとなればやはり罪悪感が湧く。ひとときばかり怒りを忘れて遠慮がちに伺い見ると、何をいまさらといったような表情を見せて英一は歩き出した。
 その背中を追いながらふと思う。
 大学の同級生たちなどは、毎日合コンやらなんやらと忙しく立ち回っている。その相手として選ばれるのは専ら兄のような職種の青年たちだ。当然兄にだって引く手あまただろう。兄ぐらい頭がよくて見目もいい、しかも公務員とくれば、女子大生だけではなく丸の内のOL達も放って置きそうもないものだが……と少々ブラコン気味な思考が湧き立つ。
 しかし、先程の言動からして兄にはまだそんな気はないらしい。今は仕事に充実感を感じているといったところなのだろう。でもいつかは、隣に素敵な女性をエスコートして自分から離れていく。それが必然なのだ。そう思うと怒りが急速になりを潜め、反動で気持ちが沈む。
 寂しさを振り払うように半ば強引に兄の腕を引っ張り、カナは自分の腕を絡ませた。
「おい、なんだよ突然」
 照れたような慌てた兄の表情を見て、優越感が心を満たしほんの少し怒りが薄れる。
「今はまだあたしのアニキだもん。このぐらいしたっていいじゃない」
 そう呟いた妹の複雑な表情に、英一はふと言われようもない不安を感じた。
 大切なものを誰かに奪われてしまうような……確証のない、そんな漠然とした不安だ。

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「メシは食ったのか」
 部屋に上がると、英一が聞いてきた。
「まだ」
「じゃぁついでだ。二人分作るから食えよ」
 そう言ってキッチンに立つ兄を、カナはリビングのソファに腰掛けて眺める。しばらくすると、白ワインの香りが立ち、緑の鮮やかなサラダに、オレンジの香りがすがすがしいパスタがテーブルに置かれた。
 しばし二人で料理に舌鼓を打つ。女の自分より料理上手な兄に、カナはちょっとだけむくれた顔を見せてそれから笑う。いきり立った心が徐々に落ち着きを取り戻し、冷静な思考が戻ってくる。それでも拭い去れないものを、カナは兄に伝えに来たのだ。
 食事が済み心地よい満腹感に脳の緊張がほぐれたところで、急に喉が渇きだした気がして、英一が再びキッチンに向かった。
「コーヒー飲むか?」
 湯を沸かしつつお気に入りのマグを取り出す。来客用のカップをひとつ取り出して英一はカナに声をかけた。
「アニキ、紅茶ある?」
 妹の口から飛び出した予想だにしない台詞に、英一は驚きをありありと浮かべた。
「どうしたんだ?食後はコーヒーに限るって、お前いつも言ってるじゃないか」
「そうだけど……今日は紅茶が飲みたいなーと思って」
 どう考えてもおかしい。その原因を探るべく、英一は遠まわしな探りを入れてみることにした。
「そういえば、職場の先輩から入省祝いにって貰った紅茶のセットがあるけど……俺、淹れかた知らないぞ」
「大丈夫。あたし、自分で淹れるから」
 いつの間にそんな趣味を覚えたのだと驚いた顔で見る兄に、カナは内心を悟られないよう、わざと視線をそらして台所へ向かった。兄をリビングに追いやって自分で紅茶を淹れてみる。じきに揺れる赤褐色の液体が目の前に差し出された。英一は妹が初めて淹れてくれた紅茶を、感慨深げにひとくち口に含んだ。
「渋いわね」
 淹れた本人が一番渋い顔をしている。飲み慣れないものだけにその渋さが一層際立つような気がして、英一は普段入れない角砂糖をひとつ落とすと、妹に責めの視線を向けた。
「残念だが、これじゃぁ淹れたことにはならないぞ」
「そうだね……どうやったらあんなに上手く淹れられるんだろう」
 先程までとはうって変わった妹のしおらしい台詞に、英一はひくりと眉尻を動かす。手にしていたカップをソーサーの上に置いて、今度は正面から静かに問いただした。
「お前、今日はなんだかおかしいぞ。……何かあったのか」
 ぎくりとカナの表情がこわばったのが分かった。手にしていたカップの中身をぐっと飲み干し、カナは英一に恨みがましい視線を送る。
「アニキがちゃんと教えておいてくれなかったのが悪いのよ」
 その言葉に自分が何かしでかしただろうかと、ここ数ヶ月の記憶を辿ってみるが一向に思い当たらなかった。諦めて問い返す。
「俺がお前に、一体何を教えてやればよかったっていうんだ」
「あの人が……ウチの大学にいるって、何で教えてくれなかったのよ」
 誰のことを指しているのか、一瞬本気で分からなかった。が、妹の通う大学の名前を思い出してはっと気づく。
「お前……もしかして『ひろ』に会ったのか」
 親友の名を口にした途端、妹の顔に複雑な表情が浮かんだように見えた。
「そうか、会ったのか。しばらく会ってないが……アイツ元気か?」
「そういう問題じゃないでしょ!なんでそんな大事なこと教えてくれなかったのよ!」
 大事?
 妹の台詞の一部を耳ざとく聞き咎め、英一は先程感じた不安がただの杞憂ではないことを悟った。
 そうか、もしかして……。
 自身が口にした言葉に何事かを察したらしい兄の視線に、カナが思わず顔を赤くする。そのまま頬を膨らませてそっぽを向いた。初めて親友に妹を紹介したときの表情と今の表情を比べ、英一は口元に笑みを浮かべると独言のように呟いた。
「なるほど……確かに俺に非があったようだな。でも、知らなかったんだから仕方ないだろ」
 かすかにからかいを含ませた言葉。それに反論しようとして言葉に詰まる妹の百面相を見て、英一は親友の顔を思い浮かべた。
 果たして彼は、妹の態度にどんな反応を示すのだろう。学生の頃にはお目にかかれなかった事態に、好奇心も湧くが同時に不安もある。なにせ相手がたった一人の妹だというのだから、複雑な思いを抱かずにはいられない。それは至極当然なことのはずだ。
 あとで行政指導だな。
 でも、しばらくはいち傍観者のままでいよう。
 英一は渋さの際立つ紅茶を口に含み、ついでに紅茶のレクチュアも頼むべきだなと思った。


400字詰め原稿用紙換算 11枚


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