HIROKANA (さく) −Perquisite−
「……というわけなの」
 喫茶店の窓際、一組の男女。その女性の方がテーブルに身を乗り出し、向かいに座った青年に小声で何かを話している。親しげな物言い――二人はどうやら恋人同士であるらしい。
「なるほどね」
 黙って聞いていた青年が、ようやく合点がいったという風な顔をする。先程店員に運ばれてきたまま、テーブルの上に放置されていたカップを手にし、程よく冷めた褐色の液体を口に含んだ。
「どうも最近様子がおかしいと思ったら、そういうことだったのか」
 そう言って目を細める彼に、彼女は続けた。
「それでね、お願いしたいことがあるの」
「なんだい?」
「あのね」
 ひっそりとした小声の頼みごとに聞き耳を立てる。伝えられた言葉に、彼の顔に楽しそうな笑みが浮かんだ。
「お願い。協力してくれない?」
 割と遠慮がちな彼女の表情に、カップをソーサーの上に置いて、彼はうーんと唸ると腕組みをして考え込んだ。ちらと様子を伺い見て、もったいぶったように間をとると答える。
「君の頼みごとを、俺が引き受けない理由はないだろ?」
 途端彼女の顔に安堵が浮かぶ。胸をなでおろし、彼女はありがとうと礼を言った。
「最近課題ばかりで食傷気味でさ、何か面白い事はないかなと思ってたところだったんだ。……こんな楽しそうなおせっかいならいつだって引き受けるよ。レポートそっちのけでやりたいくらいだ」
 傍らに置いた鞄を少し恨めしげに叩く彼に、彼女は意地悪な笑みを浮かべた。
「あら、レポートは提出してもらいますからね。サボりは許さないわよ」
「相変わらず、ウチの教授より厳しいな」
 そう言って彼はもう一度カップを口元に運んだ。ふとその動きが止まる。
「成就した暁には正当な報酬を請求させてもらわないと。とりあえずは、目下君の好物でも請求させてもらおうかな」
 そして忍び笑いを漏らす。
 状況を楽しんでいるとしか思えない彼の言葉に、彼女は苦笑を浮かべる。楽しそうなことにはすぐに頭が切り替わる、そういう風に夢中になる人なのだと知っているから。
 案の定、コーヒーの余韻に浸る暇もなく、彼の頭の中では既に策謀が練られ始めていた。

+++++++
 廊下と廊下が交わる場所――中央校舎のホールには多くの学生達が集まっていた。大学の構内でこんな光景は日常茶飯事である。楽しそうに会話を弾ませるグループが無数にあるのだから、その一角で談笑する二人のさまなど、これといって気にならない……はずだったのだけれど。
 一組の男女。その女性の横顔に目が引き寄せられる。見覚えのある顔だったのだ。
 彼女が自分の知らない男子学生と楽しげに談笑している。それを目の当たりにして、腹の底からなにかがふつふつと湧いてくるのを知覚し、それがあっという間に抑え切れないほどに膨らむ。
「カナちゃん!」
 次の瞬間、僕は叫んでいた。無意識の行動だったと言っていい。さっきまで声をかけるつもりなんて毛頭無かったはずなのに。
 思いがけない大きな声に、彼女が驚いてこちらを振り向いた。向かいに立っていた青年もこちらに視線を向ける。つかつかといつもよりも幾分か早足で二人に歩み寄ると、僕は並んだ二人の向かいに立った。
「あ、先輩。こんにちは」
 彼女が自分にかけてきた言葉は愛想もそっけもない社交辞令。一瞬むっとしたが何とか押さえ込んで、僕は隣に立つ青年を見た。
「友達?」
 まぁ、そんなところですと彼女は応えた。一体なんなんだ、その中途半端な物言いは。
「恭司くん、この人があの国枝浩隆先輩よ。会うのは初めてでしょう?」
『この』とか『あの』とか指示語の多い台詞は、なんだか自分を珍獣扱いされたような気がして腹立たしいことこの上ない。普段ならさして気にもならないのに、なぜか今はそれが許せない。
「彼は同じ学部の嘉州恭司くん。彼、ものすごく頭がよくて……」
 自慢げに青年を紹介する彼女に、剣呑な視線を向けてから僕は再び嘉州という青年を見た。自分と同じくらいの背丈の、穏やかな風貌の持ち主だ。いわゆる好青年という部類に入るだろう。
「初めまして。先輩のレポート、先日読ませていただきました。難解なテーマなのにとても読みやすく整理されていて、正直脱帽でした」
 世辞ではない本心からの言葉。そう言って彼は右手を差し出してきた。どうにもその手を握り返す気持ちなど起きなかったが、最低限の礼儀だと割り切ってその手を掴む。ぐっと握り返してきた手は力強く、体つきを見た限りではそうは見えないが、何かスポーツをしているらしい。
「ありがとう。参考にして貰えて嬉しいよ」
 そっけない態度の僕に、彼は気を悪くした様子も無く穏やかに微笑んでいる。それを見ていると自分が卑しい人間のような気がして、一刻も早くこの場を逃れたい気持ちになる。
「カナ、それでさ、さっきの映画の話の続きなんだけど……」
「あ、そうね。そうだ、先輩あたしに何か用事ですか?」
 その言葉に苛立ちと情けなさと羞恥が重なって、ごちゃごちゃの感情のまま僕は言った。
「いや、そうじゃないよ。偶然見かけたから声をかけただけだし。話を止めさせて悪かったね。お邪魔のようだから失礼するよ」
 自分でもとげとげしい台詞だと思った。そのまま踵を返して彼等と別れる。
 原因のわからぬやるかた無さが、自分自身を傷つけ陥れていることを自覚しながら。

「どうしたのかしら。変なの」
浩隆の背中を見送っていぶかしげな表情を浮かべたカナに、恭司はこっそりと苦笑いを浮かべた。
「なるほどねぇ」
「え?」
「いいや、なんでもない。それよりも、映画の話なんだけど」
 恭司はそういうと鞄の中から何かを取り出した。指の間に紙片(チケット)が2枚挟まれている。
「これ幕際の映画なんだけどさ、俺たち多分忙しくていけそうに無いんだ。折角の前売りをこのまま棒に振るのも惜しいし……君にあげるから、国枝先輩でも誘って行ってきなよ」
 多分忙しいというのはどういう理屈なのだ。おかしな日本語を話す恭司を不思議そうに見詰めて、カナははっとして頬を染めつつ慌ててかぶりを振った。
「な、なんでそこであの人がでてくるのよ」
「だって、君等昔からの知り合いなんだろ?」
「そんなこといったって、別にそういう関係じゃないし」
「へえ、どういう関係だって?」
 にんまりと笑う彼。してやられたとカナはますます赤くなって頬を膨らませた。その鼻先にずいっとチケットを差し出して、恭司は最後の通告をする。
「欲しいの?いらないの?カナだからタダであげようと思ったのに残念だな。いらないなら他のヤツにプレミア上乗せで売ろうかな」
 いくら人気のある映画だとはいえなんとも甚だしい。まったくとんでもないヤツだ、とカナは思った。とはいえ誰かにみすみす横取りされるのも癪だ。鼻先にちらつかせているそれを、半ばもぎ取るようにして受け取る。
「それでよし。無料で映画館にご招待だ」
「でもいいの?由梨亜と一緒に行く予定だったんでしょ。勝手にくれちゃって、あの子怒らない?」
「心配いらないさ。この穴埋めはちゃんとするから。当然君にも協力してもらうからな」
 にこにこと笑うその下で、どんなとんでもないことを考えているのだか、とカナは思った。心配げな彼女に恭司は言う。
「チケットを譲る条件はひとつ。『木町通りのチーズケーキ』を彼女に奢ってくれないか」
 大学からほど近い洋菓子店の一番人気を口にして、恭司はカナに片目をつぶって見せた。
「彼女、チーズケーキには目が無いんだ。見たがってた映画だったからね、それに見合ったものを差し出さないと。当然アフタヌーンティーのセットで頼むよ」
 カナはわかったと頷いた。
「ちゃんと感想を聞かせてくれよな。でないと折角お膳立てしてやった意味が無いだろ?レポートはきちんと提出するように」
 そこで初めて、カナは彼の意図を理解した。策にはめられ悔しく思いながらも、カナは礼を言おうと口を開きかける。
「ほら行った行った。早くしないと誰かに先を越されるかもしれないぞ。折角のチケットなんだから、無駄にしたら承知しないぞ」
 恭司にぐいぐいと背中を押されてカナが駆け出す。その背中を見送りながら、恭司は呆れたような溜息をひとつついた。
「まったく、世話の焼けるったらありゃしない」
 親友とその相手をその気にさせる手伝いをして欲しい、そう彼女から頼まれたあのとき、それを引き受けたのはただ『面白そう』だと思ったからだ。
「確かに、珍しいものを見せてもらえたな」
 とりあえずは簡単に状況把握をと思っていた。しかし予想以上の反応(てごたえ)に、恭司はなんだか得をしたような気分になった。
「まさかあんなに喧嘩腰の先輩が見られるとはね。初対面ながら役得だったよ」
 独り言をつぶやいて、自分も目的の場所へと廊下を進む。
 まずは前座が終了だ。反応は上々だったと、とりあえず彼女に報告をしなければ。
 けれど、それだけには留まらないのだ。今後も試みを継続し、さらに考察を加えて仕上げねば、彼女の自分に対する評価は上がるまい。もしかすると彼らではなく、自分が試されているんじゃないだろうかと、そんな疑問もよぎる。
 講座の課題よりもずっと手のかかる、そして予測もつかない実験に、恭司は久しぶりに胸が躍るのを感じていた。

+++++++

「お邪魔します」
 がらがらと車輪の音を響かせて戸を開ける。何度か通ううちにこの音にも慣れてしまった。後ろ手に戸を閉めて中を見やると、彼は机にかじりついてこちらに背を向けていた。
「何か用かい?今忙しいんだけど」
 はっきりと棘のある口調だ。なにを怒っているのだろうかと、カナは負けじと食い下がる。
「あの、今晩時間あります?」
 ほんの少しだけ、距離の近づいた口調。最近では、二人でいるときには自然に切り替わるようになっていた。
「今言っただろ。レポートを片付けなきゃならないんでね、忙しいんだ」
 いつもと違うそっけない返事。机の上の本が瞬く間にめくられていく。両手がせわしなく動いていた。まるで初めて出会った頃のような冷たい雰囲気。カナは手にした映画のチケットをぎゅっと握り締めて押し黙った。最近感じていた親近感が、やはり思い過ごしだったのだろうかと心が痛む。
 けれども彼女は気づいていない。
 開かれた本は独和辞書、けれども右手に握られた万年筆が描くのは、誰にも読み取れない文字の羅列。波立つ心を抑えられぬまま、集中力を要する作業が出来るはずも無く、浩隆はそれらしい格好を装っていただけに過ぎなかったのだ。
 近寄りがたいものを滲ませる背中に、なんと声をかければいいのか分からなくて、カナはただただ立ち尽くす。その気配を察し、ほんの少し罪悪感を感じながらも、浩隆は己の口をついて出る言葉を止められなかった。
「さっきの彼と何か約束していたんじゃないのかい?だったらそっちを優先するべきだよ。僕なんかに構っていても時間の浪費なだけだ」
 投げやりとも言うべき言葉が次々に出てくる。ここまで酷い言動は初めてだという自覚もある。けれども止められない。かろうじて彼女を非難する言葉が出てこないだけマシな方だ。
「そんなこと……できるわけない……」
 呟いた声が震えている。もしかしたら涙を流しているかもしれない。けれども、今の自分の醜い姿を見られたくなくて、どうしても振り返ることができなかった。ぐっと筆先をレポート用紙に押し付けると、そこにインクがじわりと滲んだ。
「彼と約束だなんて、そんなのありえない。だって彼はアタシの親友の恋人だもの。いつでも先約アリなのに、そこに入り込むなんてできないでしょ」
 耳に届いた台詞に、浩隆ははっとして顔を上げるとカナを振り返った。
「親友のって……彼、恋人いるの?」
「あんな素敵な人に、恋人がいないはずないじゃない。彼の思い人はあたしの一番の親友なんだから。綺麗で頭もよくて、あたしなんかすぐにかすんじゃう」
 語られた真相に、浩隆は全身から力が抜けてしまったように椅子の背もたれに身体を預けた。そして気づく。
「そうか」
 自分と対峙したときに彼が見せた態度と言動。彼は自分を試していたのだ。彼女の隣に立って、自分の反応をうかがっていたのだろう。
「まったく、してやられたな」
 右手を額に当ててくっくっと悔しさを滲ませて笑う。いいように彼に誘導されてしまったというわけだ。
「なに笑ってるの」
 彼女の声が今度は怒りに震えていた。今までの仕打ちを思い出して、頭に上っていた血が一気に氷点下のそれまで下がる。
「カナちゃん」
 あわてて立ち上がり、わなわなと肩を震わせる彼女の傍に歩み寄る。ぐっと唇を噛み締めた彼女の表情は、前髪に隠れて分からない。握り締めた映画のチケットはもうくしゃくしゃになっていた。それを目の当たりにして切なさが心に湧きあがってきた。それから、今までは抑えてきたある種の気持ちも。
「あのさ、そのチケットなんだけど」
 こんなときにどういえばいいのか分からず、浩隆は思いついたことをそのまま口にすることにした。
「僕に売ってくれないかな。酷いことをしたお詫びに、ぜひとも誘って謝りたい人がいるんだ」
 ひくりとカナの肩が震える。ゆっくりと顔を上げ、かすかに期待を含んだ表情で浩隆を覗き込んだ。
「高いわよ。なんたって一番人気の映画なんだから」
 彼は無言で頷いた。いくらの値がつこうが手に入れるというような真剣なまなざし。それに根負けしたように、カナは潤んだ瞳で少し笑った。
「そこまで言うなら譲ってあげる。その代わりに、ひとつお願いがあるんだけど」
「なんだい?」
 ほんの少しのいたずら心が湧き立つ。くしゃくしゃになったチケットを二枚、彼の前に差し出してカナは言った。
「『木町通りのチーズケーキ』を三人分、アフタヌーンティー付きでおごってちょうだい」
 当然、彼のぶんはなし。
 そのぐらい報いてもらって当然だろう。


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