昨日のことだ。
講義で題材として取り上げられたレポート。実際使われたのはほんの一部分だったのだが、その後なんとなく興味を惹かれて、叶うならすべてに目を通してみたいと思ったのが事の始まりだった。講義を担当した教授に相談してみると、どうやらあれはこの大学の在校生が書いたものらしく、相手の名前を教えてくれた。
国枝 浩隆
それを聞いた時、ふと脳裏をよぎったおぼろげな記憶。
2年ほど前になるが、兄が受験勉強と称して自宅へ連れてきた青年――彼は確か『国枝』と名乗っていなかっただろうか。
まさか、とそこで冷静さを取り戻す。教授の言う当人と自分が記憶する人物が合致する確率など、途方もないくらい低いに決まっているじゃないか。それに、初めて会ったあのときの記憶を思い起こせば、仮に当人だったとしてもちょっと複雑な気持ちだ。――記憶の中の彼は、冷たい印象の持ち主だったからだ。
あれやこれやと考えているうちに、教えられた部屋の前にたどり着く。驚いたことに『国枝』という彼は、いち学生ながら研究室を与えられているらしい。とはいえ見るからに年代物な扉である。文化財にも指定されている旧校舎の一角に位置しているのだから至極当然か。B4判の更紙にマジックの手書きで、室名札というには貧相なそれに、『国枝』とだけ、小気味よいほどさっぱりと書かれている。
木の枠にはめられた擦りガラスに向こう側の景色がぼんやりと映っている。が、人影は見当たらない。扉のどこをノックすればいいのかわからなくて、とりあえずガラスの部分を軽く二度叩いてみた。
「はい。あいてますから、ご自由にどうぞ」
中から思いのほかはっきりした声が返ってきた。廊下一帯に響いたんじゃないかと、恥ずかしくなって辺りを見回すが、幸いなことに人気はなかった。ほっと胸をなでおろし、意を決して扉の取っ手に手をかける。いかにも古そうな車輪がレールを滑る音がした。
「お邪魔します……」
中に入ってみると室内は案外綺麗に片付けられていた。書棚や机などの備品は確かに古めかしいが、収まるべきところに収まった簿冊は、現代のシステマチックな雰囲気をかもし出している。
この部屋の主人たる人物の姿は相変わらず見えない。戸惑いながら立ち尽くしていると、奥の書棚の向こうから突然声がふってわいた。
「お待たせしてすいません。こんな辺境までようこそ。僕に何か御用ですか?」
現われたのは長身の青年だった。綺麗にアイロンがかけられた白衣を身に付け、手には厚い本を数冊抱えている。眼鏡の奥の瞳がこちらを見て……直後大きく見開かれた。
「あれ、君は」
彼だ。間違えようがない。
「カナちゃん、だったよね。英一の妹の」
懐かしそうに目を細める彼に、あたしはただただ頷くことしかできなかった。ここにやってきた理由ごと、全ての思考がかき消されて、頭の中が真っ白になってしまっていた。
「君、ここの学生だったんだね。まさかこんなところで再会できるとは思ってなかったよ」
物腰から受ける印象が記憶と随分違う。失礼な話だが……なんというか、雰囲気が柔らかく暖かくなっている気がした。何も言えずにじっと見つめていると、彼は不思議そうな顔を見せた。
「どうしたの? 僕の顔になにかついてる?」
ぶんぶんと頭を振ってそれを否定する。用件を伝えないとと思っているのになかなか言葉が出てこない。緊張で口の中がからからだ。
「まぁ立ち話もなんだし、その辺の椅子を適当に引っ張って掛けてよ」
気を遣ってくれたのか、手にしていた本をどさりと机に置いて彼は言った。それから脇机の上のポットに歩み寄ってなにやら準備し始める。背中を向けられて少し緊張が緩み、あたしははっと我に返って近くの丸椅子に腰を下ろした。
電気ポットの湯が注がれて、なにやら芳しい香りが立ち込める。彼が手にした円い形の茶器に入っているのはどうやら紅茶らしい。布をかぶせて砂時計をひっくり返す彼の背中を、あたしはなんとなしに見詰めた。
「紅茶、飲める?」
背中を向けたままの彼が聞いてくる。
「あ、はい」
「砂糖は?」
「えっと……じゃぁ、ひとつ」
じきに砂時計の砂が落ちきり、湯気と共に白磁のカップに赤茶色の液体が注がれる。瓶の中の角砂糖をひとつ落とし、スプーンでかき混ぜてこちらへ差し出してきた。
「ありがとう……ございます」
どういえばいいのか分からなくて、とりあえず敬語で礼を言うと、彼はおかしそうに笑った。
「なんだか、らしくないなぁ」
彼は古い事務椅子に腰を下ろすと紅茶をひとくち口に含んだ。手の中のカップを見つめて、アタシも同じように温かい液体を口に含む。
「美味しい」
かぐわしい茶葉の香りが鼻腔をくすぐる。緑茶ほど涼やかでもなく、中国茶ほど濃厚でもない、舌に心地よいその味に思わず感嘆がもれた。
「紅茶の味を分かってくれる人がなかなかいなくてさ。そう言ってもらえると淹れる甲斐があるよ」
にこりと笑った彼。温かい飲み物にすこし落ちついた気がして、あたしは話を切り出した。
「あの、葛原教授の講義でレポートを拝見したんですけど」
ああ、と思い出したような表情を見せて、彼は照れくさそうに言った。
「恥ずかしいからやめてくださいよって頼んだんだけどね。まいったなぁ」
「それで、あの……もしも可能なら、レポートの全文を読ませてもらえないかと思って」
「あれに興味があるの?珍しいね。君って結構マニアックなんだ」
あけすけな物言いに、正直むっときた。そんな反応すらも楽しんでいるかのように、彼は余裕綽々に見えた。
「すまない。今のは失言だったよね。レポートのデータは残っているから、よければあげるよ」
「そう、ですか」
どうもぎこちない言い方になってしまう。顔を知っているとはいえ、こういう風に会って直接話すのは初めてなのだ。
「あのレポートに興味を持ってくれる人がいるなんて、驚いたけど正直嬉しいよ。けど残念なことに、この部屋にはプリンターがないんだ。もしよかったら、メールでデータを送るけど……女の子はそういうの嫌がるかな?」
言って彼は机の上のメモ用紙――使い古しの連続用紙を切った裏紙のようだが――にすらすらと何かを書いた。それを切ってこちらに渡す。
「これ僕の自宅PCのアドレスだよ。メールでいいっていうなら、そこに返事をくれないか。そしたらこっちからデータを送るから」
そうでなければ明日また来てくれないか、と彼は言った。今晩自宅に戻ってプリントアウトしてくるという。もちろん、メールの返事が無ければ、だが。
手の中のメモを呆然として見つめる。
紙の上に並んだ文字が、宝物につながる秘密の暗号のような気がして、一気に鼓動が早まった。
+++++++
帰宅して食事を済ませた後、普段何気なくしている行動――メールのチェックのためにノートパソコンの電源を入れる。
けれども、今夜は目的が違う。
自分が、彼に、メールを送るために電源を入れたのだ。このときに到るまでに、実は何度とない押し問答を自分の中で繰り返した。これほどまでに迷った挙句、メールを打つのに気を遣ったことなんて今までなかった。アドレスを教えてあるのはごく親しい友人と兄貴だけ。だから普段口にすることを、そのまま打ち込むだけでよかった。
でも今のメールの相手は彼。いつもの口調でというわけにはいかないのだ。丁寧に言葉を選んで打ち込まないと、とんでもない印象を抱かれかねない。……違うわよ、レポートを見せてもらうのに、失礼な物言いはできないじゃないの。だからきちんとしたものをって思ってるだけよ!それに、わざわざ大量の紙とインクを消費しなくて済むんだし、立派な倹約じゃない。
なぜか自分に言い訳しつつ、渡されたメモの字列をなぞってあて先に打ち込む。
タイトルは……『レポートの件』にしておこう。
打ち込んでマウスに手をあてがう。しばしそのままでいた後、意を決してクリックした。かちりと音を立てたと同時に、画面には『送信されました』とメッセージが出る。
はぁぁ、と盛大に溜息をつくと体からいっぺんに力が抜けた。椅子の背に身体を持たれかけさせる。無意識に緊張していたらしく脱力感が甚だしい。たかが一通のメールに、自分がパントマイムでもしているような気がして、自然に笑いがこみ上げてきた。
それにしても、と思い起こす。
研究室で話した彼は、あの頃の彼とは別人のようだった。昔は、もっと人を寄せ付けない雰囲気を持っていたように感じる。けれど、今日の彼はまるで逆。春の陽だまりのような暖かさを持っていた。再会までの空白の時間に何があったのか、彼をあそこまで変貌させたのが一体何なのか……無性に気になって仕方がない。
と、突然メールの着信を告げるアラームが鳴った。
静かな部屋に響いたけたたましい音にびくりと背筋を伸ばし、慌てて画面に向き直ると受信ボックスを開けてみる。
『こんばんは。
返事をくれてありがとう。
正直なところ、やっぱり紙であげた方が良かったのかなと思ってたんだけど……
ともあれ、約束のデータを送ります。
疑問があったら、いつでも来てください。もちろん、メールでもOKです。
じゃぁ、今夜はこの辺で。
同じ大学だし、これからもよろしく。 国枝浩隆
追伸:ここ1ヶ月ぐらい会ってないけど、君の兄貴にもよろしくね』
最後に兄への伝言がついていた。
初めて届いた彼のメール。それを独り占めできないことが、なんとなく面白くない。今だ帰らず、庁舎に残っているだろう兄をちらりと恨む。
届いたデータを保存して、そして決意する。
なんとしても今夜中に読みきって、明日質問がてら礼を言いに行こう。
きっと驚くはずだ。
あたしひとりが損したような、そんな気分にさせてくれたお返しをしてやるんだから。
400字詰め原稿用紙換算 13枚