化学のスヽメ 第一講義 -36℃ An armor melts for stimulation-
 午前6時30分。小高い丘の上に建つオフィスビルの30階休憩室。この高さからだと、窓から望める景色が格段に広い。しかし朝日に照らされて輝くはずのビル群は、もやもやとしたものに覆われていて、雑多に並べられたドミノの駒のようにしか見えなかった。
「……やーめた」
 業務計画作りの徹夜明け、しかも記念すべき日を一人で迎えた憂鬱を紛らわそうと思ってきたのに……アテが外れたわねと小さくため息をつくと、あたし――押居晴香(おしいはるか)は窓から離れて自販機に歩み寄った。
 くすんだ小銭を投資して無糖のカンフル剤(、、、、、)を得る。しかしこの程度の刺激で気持ちが晴れるとは思えなかった。それでもないよりはマシだと口をつけるが、飲み干した後で出たのは案の定ため息だけ。
「今日であたしも29歳、か」
 年を取ったわねとひとりごち、そばの椅子に腰を下ろして省みる。ただひたすら仕事に打ち込み、走り続けてきたこの7年。その間に得た経験、人脈、そして『主任』という地位は、すべて社会人としての一定の評価だと自負している。
 しかしそんな実利に寄った思考が、今自分に負け犬の烙印を押しかかっていると思えば、憂鬱さにますます拍車がかかるというものだ。若いうちならまだ何とかなったのに……と、女のボーダーラインを前に焦りを感じ始めた自分を嘲る。
「このまま錆びついてっちゃうのかしらね」
「何がスか」
 突然降って湧いた声にぎょっとして振り向くと、休憩室の入り口に青年が一人立っていた。
「青柳」
「なんスかそのいかにも『メーワクだ』って顔。不愉快っスね」
 むっとした顔を見せ、同じ課の後輩である青柳慶大(あおやぎよしひろ)は紙袋を手に歩み寄ってきた。
 彼は去年の春に入社したいわゆる『新人』だったが、上司をして『近年まれに見る明敏犀利な新人』と言わせた逸材だ。高い身長に顔は……まぁそこそこの部類だろう、大卒の前途洋洋とした雰囲気とも相まって、あたしはどうも彼が苦手だった。あの口調に釣られたら最後、確実にペースを乱されるという危機感から――というのみならず、純粋に若さと能力に対する嫉妬もあったろう――極力仕事以外の場では近づかないようにしていたのだ。それなのに。
「あら、いつも遅刻ぎりぎりの出社なのに、今日はどういう風の吹き回し?」
「うわキツっ。折角朝イチでいい話を持って来たのに、一気に萎えるじゃないスか」
「くだらない前置きはいいから、さっさと用件を言いなさい」
「取り付くしまもなしっスか。わかりましたよ……例の件ですけど、夕べ最終合意に至って契約書取り交わしてきました」
 確かにいい話ね、と少し肩から力を抜く。ひと月前さる中堅企業から依頼を受けた販促企画。それが彼と組むことになった理由だった。
 当初この案件を担当していたのは、入社3年目の松崎という青年だった。しかしT大出で何かと鼻につく言動が多い彼は、案の定余計なことを言って先方を怒らせてしまったらしく、結局直属の上司である自分と手の空いていた青柳が二人で尻拭いをする羽目になった。
 ヘソを曲げた相手に何度となく侘びを入れ、再び企画を諮る。そうして事態はようやく元の鞘に収まり、あたしは後を彼に任せて自分の本来の仕事へと戻ったのだった。
「あの、先輩?」
「なによ」
「一仕事終わったんスよ? なんかひとこととかないんスか?」
「え? ああ、よく頑張ってくれたわ。お疲れさま」
 社交辞令でそっけない台詞に、明らかに不満そうな顔を見せる。
「……まぁ、先輩がつれないのはいつものことですからね。それより、大丈夫スか?」
 なんか顔色悪いですよと言って覗きこまれ、あたしはとっさに身体を引いて身構えた。
「べつに。あんたに心配されるようなことなんてないわよ」
「ほんとスかぁ?」
 甚だ疑わしげな瞳。案外心配性なやつなのだなと内心苦笑して、仕事明けの褒美代わりにほんの少し愛想を見せてやることにした。
「ほんとよ。徹夜明けで、ちょっと気合が足んないだけだから……そうね、何か目の覚めるようなことでもあればいいんだけど」
 半分強がりなとりなし方をすると、彼は「なら、丁度いいものありますよ」と床に置いた紙袋を引き寄せた。
「そういえば、なんなのそれ」
「先月のバレンタインのお返しっス」
 ああ、今日は3月14日――あたしの誕生日でホワイトデーかと思い出す。
「こっちはあとで渡しますから、その前にこれどうぞ」
 ごそごそと中を探り差し出した手のひら。載っていたのは、真っ赤な包みのひとくちチョコがふたつだ。
「中身はなに?」
「まぁまぁ、とにかく絶対目は覚めますから」
 答えを濁した理由を怪しみながらも、空腹感には勝てずひとつとって口に入れる。残った方を彼が食べ、二人でもぐもぐやっていた次の瞬間――
「……ん? ぶっ!! かっ、かはっ」
 びりびりと口の中を刺す突然の辛さに、恥も外聞もいっぺんに吹き飛ぶ。
「な、なによコレはっ!! 辛……痛いっ!!」
 ワサビ、カラシ? いや、もっととんでもないレベルだ。じたばたと悶える自分をよそに、彼は涼しい顔をして自販機で紅茶を買っている。
「はい、先輩」
 小憎らしい笑顔と共に差し出されたそれを、半ばもぎ取るようにして一気に飲み干し叫ぶ。
「あ、あんひゃ、コりぇににゃにをひれたのっ!!」
 回らない舌で非難をつむぐあたしに、紙袋の中から取り出した駄菓子の袋を見せる。そこに書かれた文字に思わずめまいがした。
「ハ、ハバネロ入りチョコ?!」
「イエース。これでしっかり目ぇ覚めたでしょ?」
「それどころじゃないわよ! あんた、予告もなしになんて危ないもの食わせんの! 殺す気?!」
 どうやらパーティーの余興に使う類のものらしい。こんないたずらを仕掛けてくるなんてと、呆れと共に目尻にちょっぴりくやし涙が滲んだ。
「先輩もバレンタインにサプライズくれたじゃないですか。これはそのお返しです」
 しごく当然のように言うが、あたしは話がつかめず眉をひそめた。こんな仕打ちを受けるいわれはないとしばし記憶を探り……そしてまさかアレのことではと思い直す。
 職場用の義理チョコを買いに出たとき、可愛らしいウイスキーボンボンのアソートを見つけた。そうして新年会で水割りばかり飲んでいた彼を思い出し、尻拭いを一緒にさせられている罪悪感も手伝って、好物であろうそれを買って渡したのだった。
「本当にびっくりしたんですよ。まさか先輩が、俺の好みを覚えててくれてたなんて」
 照れくさそうに頭をかく姿に、彼があのチョコレートをどのようにとらえたのかを知って慌ててかぶりを振る。
「あれは、別にそんなつもりじゃ」
「じゃぁなんだったんですか。年下をからかってやろうとか?」
 その台詞にどきりとし、違うと言いかけた自分に気づいてはっとする。口元を押さえたままでいると、彼はこちらが切なくなるような顔を向けてきた。
「悔しかったんですよ。いきなり俺の内側に入ってこられて、いいように引っ掻き回されて。だから絶対つきとめて仕返ししてやろうって思ったんです」
「つきとめるって、何を」
「『鎧の融点』ですよ。先輩いつもがっちり鎧着て隙見せてくれないから、まずはそいつをどうにかしなきゃって」
 意味深に言いゆっくりと手を伸ばしてくる。そうして頭に乗せられた手が意外に大きくて心地よく、あたしはつい振り払うのを忘れてしまった。
「まさかコンビニで適当に買ったのが、ホントに当たるなんて思わなかったけど……しっかり効いたみたいですね。こんなに気持ちよく溶けるんなら、最初から使っとけばよかった」
 にっと白い歯を見せて笑う彼に、崩れた相好を一部始終見られた恥ずかしさをこらえ、「勝手に言ってなさいよ」と弱弱しい抵抗をしてみせる。が三十路前の心は既に、反感や怒り以上に久方ぶりの甘い期待で大きく膨らんでいた。
「ねぇ、先輩」
「なによ」
「俺、強引さには自信あるんで、せいぜい覚悟しててください。……沸点(、、)まで届くのに、そう時間はかからないと思いますから」
 はっきりからかわれていると自覚し拳を振り上げると、彼は笑ってそれをかわし、紙袋を手に廊下へ駆け出して行った。ばたばたと足音が遠ざかっていき、再び休憩室に一人きりになる。しばし呆然としていたあたしは、ふと窓ガラスに映った自分の姿に心底驚いた。
 乱れたヘアスタイルにぼろぼろのメイク、よれて皺だらけのシャツ。身を固めていた『鎧』は、ことごとくその効果を失ってしまっていた。
「……そ、そろそろ皆出勤してくるわよね」
 自覚させられ羞恥心をごまかすかのように、ひとり呟いてロッカールームへと向かう。踏み出す一歩ごとに身体の奥底から湧き上がってくるものに、次第に鼻歌でも歌い出したい気分になってきた。
 融点、ねぇ?
 たった一粒のチョコレート。それは高い位置に押し上げられていたプライドを相応に戻し、同時に重い鎧を着ていた自分に本来の身軽さとやわらかさを取り戻させてもくれた。自分の中にまだこんなにも可能性や()があったのかと、まるで悟りを開いたかのような気持ちになる。

「セ氏36度おそるべし、か」

 人肌でゆったりと溶け、甘いだけではなく琴線を揺さぶった鋭い刺激。

 そうして舌の上に残った痺れを再認した自分の顔に、冷たい仮面に代わって、久方ぶりのあたたかな笑みが広がり始めたのがわかった。


(400字詰め原稿用紙換算 12枚)


inserted by FC2 system