化学のスヽメ 第二講義 -You deserve to be a rival!-
「はあぁぁぁぁぁ」
 夏休みの夕暮れ。赤く染まる空間に広がっていく盛大なため息。誰もいない教室に一人、相澤(あいざわ)美和(みわ)は机に突っ伏して腕の下に敷いたものを見つめた。
 広げられた教本にノート、そしてその上に置かれたB4版の答案用紙。『第一学年第一期末テスト<化学>』と書かれたその右隅に、これ見よがしに目立つ赤い数字。それは高校に入って最初の夏休みへの期待をどん底に突き落とすものだった。
「あと一点でパスだったのにぃ……」
 再びため息を吐いて起き上がり、ぎりぎりで補習にひっかかってしまったそれを恨みがましく見つめる。
『理科』は小学校の時から国語と共に得意な教科だった。色水を作ったり植物の観察記録をつけたり、中学に上がると本格的な薬品の実験も増えて興味もやる気も俄然増し、学年でだって結構いい順位につけていたのに。
 それが高校に上がり『化学』『生物』『物理』と分科されると、途端に授業に集中できなくなった。特に『化学』はからっきし。大好きな実験が、理論先行授業のほんのおまけになってしまったからか、教本にびっしりと書かれた用語や反応式に、入学からまだ数ヶ月だというのに早くも拒否反応が出始めていた。
「あの『熊』が悪いのよ」
 もどかしさのあまり、化学の担当教諭に八つ当たりする。のほほんとした童顔で熊のイメージとはかけ離れた彼、熊倉(くまくら)(のぞむ)の授業は決して悪いとは言えない――むしろ大多数の生徒からは好評である――のだが、いかんせんそのマイペースな口調が折角の意気込みを削いでしまう。そうしてペースを乱されるうち、なんとなく授業についていけなくなってしまったのだ。
「どうしちゃったのよぉ、あたしぃぃ」
 半べそでつぶやき手に取った答案で顔を覆う。これまでの自負が打ち砕かれ、焦りが募り、高校に入ったそばからこれじゃぁと、先への不安に本気で泣きそうになったそのとき。
「よう」
 降って湧いた声に慌てて答案を下ろすと、目の前の視線とぶつかった。短く刈った髪に日焼けした顔。前の席に椅子の背を抱えて座る男子生徒――中学からの腐れ縁で同じクラスの北郷(きたさと)彰良(あきら)は、部活帰りだろうか野球部特有の黒いエナメルバッグを足元に置いている。
「うわっ! びっくりした。なんでアンタがここに」
「なんでってお前、忘れ物取りに来たらなんかぶつぶつ聞こえたからさ。まさか幽霊でもいんのかと思ってよ。……しっかし面白ぇなぁ、ここまで近づいてんのに全然気付かねぇんだもん」
 一部始終を聞かれた、と咄嗟に顔が赤くなる。それをごまかそうとするより先に、彼がにやにやと手元を覗き込んできた。
「おうおう、今日から補習だっけか。精が出るねぇ」
「な、ちょっと見ないでよ!」
「隠すこたぁねぇだろ。おまえがテストで何点とったかなんて、中学のときからぜぇんぶ知ってるんだから。けど、高校入ったばっかでいきなり落第の危機とはショックだよなぁ。同情するぜ」
「言うに事欠いてなによ。ここから挽回するんだからみてなさいっ!」
「ム〜リムリ。おまえが俺に勝ちを譲るなんて、世も末って感じだし」
 はっはっはと腰に手を当て声高らかに笑う。実は彼、汗臭い体育会系の見かけに似合わぬ理系で、そこだけを抜き出せば学年順位が一桁台というとんでもない伏兵なのだ。中学の時からずっと同じ理科好きのライバル同士。でもこれまでは一度だって負けたこと無かったのに……と改めて湧いた悔しさに視界が滲む。いや、実際ぽろりと涙がこぼれた。
「お、おい何だよ。こんなことぐらいで泣くなって、なぁ?」
「こんなこととは何よ。アンタに負けるなんて、あたしにとっては一生の恥も同じよっ」
「そんな大げさな」
 突然の嗚咽に咄嗟の慰めも思い浮かばないのか、しばらくの間ただただうろたえていた彼だったが、困ったように頭を掻いて小さなため息を漏らした。
「ったく、世話が焼けるヤツだぜ」
「……っく。うっさい」
「まぁそれはともかく。なぁ美和」
「何よ」
「おまえさぁ、ちょっと構え過ぎてんじゃね?」
 なだめるような、そして諭すかのような声色に、ぐずぐずと鼻をすすりながら「どういう意味よ」と問う。
「確かに中学ン時と違っていろいろあるけどよ、要は自分の考え方次第だろうが。おまえ国語も得意だったろ? だったら化学だってそういう解釈すりゃあいい」
 は? と思わず呆けた声を出す。化学を文学で解けなどという突拍子もない台詞に、余計混乱の度合いが増した。
「なによそれ。わけわかんないし」
「だーかーらー。えっと……置き換え? 要約とか比喩とか? とにかく、そういうんなら断然得意分野だろ」
「ああ、そういうこと。まぁそういうことなら、できなくも無いだろうけどさ」
「だろ?」
「じゃぁ言いだしっぺのあんたが、責任持って何かひとつ例えてみせなさいよ」
 え゛っとひきつった表情にしめしめと心の中で笑う。彼の国語の成績が自分に引き比ぶものでないことは以前から知っている。水を得た魚のように大きな気持ちになったところで、涙をぐっと拭い即座に畳み掛けた。
「まぁセンスが皆無なあんたの比喩なんて、たかが知れてるってモンだけど一応聞いてやるわ」
「……くっそ。人を上からみやがって」
 見てろよ! と腕を組んだ彼はしばしの間うんうんと頭をひねり、じきに何かを思いついたように顔を輝かせた。
「そうだ、コレだよコレ! おい美和、手ぇ出せ」
「は?」
「いいから。右でも左でも、とにかく出せって。ほら早く! 忘れちまうだろ」
 意図が掴めず言われるままに右手を出す。にやりと笑った次の瞬間、彼の手がその手を掴んできた。ぎゅっと強く握られた手。思ったより大きく厚いその感触に、驚いてあっけに取られた直後頬が火照る。
「どーだ。これが『共有結合』だ」
 自信満々で鼻息も荒くふんぞり返る。訳がわからず首をかしげると、彼が『解説』し始めた。
「要するにだなぁ、おまえと俺が水素原子だとして、おまえが出した右手を俺が右手で掴む。そーするとがっちり繋がっちまうわけだ。希ガス元素の外殻の形に近づけようとして、それぞれ持つ電子を共有して繋がるってのが『共有結合』だろ? 俺たちだっておんなじだ。差し出したもんに応えるヤツがいるから、友達とか恋人とかができるんじゃねぇかよ」
 だから右手は一人に二本無いのかも、と日焼けした肌に白い歯が映える。原子が安定化するために不対電子を共有することで分子を形成する現象。『共有結合』と呼ばれるその意味が、思いのほかすとんと心に落ちていった。
 なんだ、こんな簡単なものだったの……と今まで悩んでいた自分が嘘のように思えてくる。自覚はなかったがおそらく至極すっきりとした顔をしていたのだろう、「どーだわかったか」と得意げな笑みが向けられて今度はどきりとする。そうして解けていった指が、なぜかことのほか名残惜しく感じられた。
「こいつは俺様からの檄だ。休み中にがっつり補習受けて、さっさと追いついてこいよ」
 足元のエナメルバッグを手にとって立ち上がり、教室を出て行こうとするその背を追うと、入り口のところで振り返った視線に再びぶつかった。
「でないと張り合いがなくてつまんねーしな!」
 いーっと歯を剥き廊下を去って行く。いつもなら「なにおぅ!」とムキになって拳を振り上げるところなのだが、なぜだろう今はそんな気が起こらなかった。
 一人きりの夕凪の教室に満ちたひぐらしの声。その中でうるさいくらいに脈打つ心臓の音を知覚し、ふと違和感の残った右手を見つめる。
 ざらざらとした砂の感触。こびりついたそれに、小さな笑みが誘われた。
「あいつ、手洗わないできたな」
 白いユニフォーム姿で化学を文学的に解く姿。ぷっと吹き出し、それがおさまると両手足を思い切り伸ばして天井を仰いだ。
 野球バカの割には、妙に気の利いた例え方するじゃない。
 正直悔しかった。化学だけだと思っていたのに、もしかするとそれだけではないのかもしれない。

「せいぜい追いついてやろうじゃないの」

 アイツにばかり得意な顔をさせてなるものか。
 そうして勢い込んで机に向き直ると、諦め閉じかけていた教本をめくりにかかる。


 休み明け試験での、驚き悔しがるライバルの顔を想像しながら。


(400字詰め原稿用紙換算 11枚)


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