Touch of Your @Female
「……じゃ、また明日」
 飲み会帰りのサラリーマンがたむろする深夜の駅。発車ベルの鳴る3番ホームでするりと解いた大きな手。
「おう。達者でな」
 不自然に芝居がかった彼の口調にひそりと眉を寄せ、動作を始めたプラグドアに滑り込む。がこん、と音を立てて二人の間に隔壁ができるや、私の胸にかすかな苛立ちと不安が湧きあがった。
 そうしてするすると動き出す23時16分の最終列車。ホームに立ったままこちらを見つめ続ける彼が次第に小さくなり、駅が最初のカーブの向こうまで遠のいた頃、偶然にも他の乗客がいない女性専用車両を返り見て、ドアに身体をもたせかける。
「なんで」
 まるでだだっこのようにむくれた声。ため息とともに唇が紡ぎ出したそれに、私は私の中にあるものをことさらに重く受け止めた。
 彼はいわゆる『幼馴染』だ。
 生まれたときには既にお隣さんで、物心つく頃には、私は彼の祖父が開いた道路向かいの診療所に入り浸っていた。待合室を走り回って怒られたり、休診日に「探検だ」と言って診察室に忍び込んだり、消毒用アルコールの香りをいつも身近に感じていたせいだろうか、私は自然に看護師――最終的に、それは保健師という倍増しの夢に膨らんだのだけれど――を目指し、彼は家を継ぐために医者になることを決意していた。
 幼稚園のチューリップ組から、小中はもちろん、地元を選んだため高校までずっと同じクラス。登校はもちろん、部活の終わる時間が合えば下校も一緒の毎日。別に小さい頃からそうだったのだから、何も気兼ねなどしていなかった。
 けれど友人たちに「熱いねぇ」とからかわれ始めたのをきっかけに、私は次第に不安と葛藤に苛まれるようになった。ときたま彼が別の女の子との話題を振ってくるのを聞きながら、愛想笑いを返して悶々とする日々。そうして巡ってきた大きな岐路に、高校3年になった私は暗鬱とした気持ちを抱いたまま受験生の道を歩まざるを得なくなった。
 それが、だ。合格通知を手に喜び勇んで向かった私の前で、彼は春から通うという大学の名を口にした。最後まで教えてくれなかった志望校、それは看護学部を併設する総合医科大学――私の入学する学校の名だった。信じられない奇跡に天を仰いで思わず涙をこぼすと、彼は「腐れ縁が続くのがそんなにうれしいか」と苦笑交じりに笑った。けれどもその言動に、なんとしても『対象』には成り得ない、幼馴染の域から抜け出せないのだという壁を突きつけられたような気がして、私は「このまま傍で見ていられるだけで幸せじゃないか」と精一杯大人ぶった理論で気持ちに蓋をしようと努めてきた。
 けれどそれももう限界。そう痛感したのは、ついさっき偶然にも想いのほどを知らしめられたから。
 いつもどおりの居酒屋ディナーの帰り、駅構内にあふれる人の波の中で「はぐれるなよ」と手を握ってきた彼。そのてのひらの大きさに、瞬間全身に本能的ともいえる衝動が走ったのだ。
 この体を、この心のうちをすべて、包み隠さず彼の前に曝したいという欲求。なんとも生々しいそれに、改めて自分が女なのだということを自覚した気がした。同時に人間行動学の講義を思い起こしながら、窓に映りこんだ赤面する顔の向こうに、彼とは反対方向に流れる外の風景を見やって自分をもてあます。
 どうしよう。
 顕著なリビドーとにわかに湧き上がった懼れ。
 けれどそのとき、どこからか励ますような声が聞こえた。

『今更そっぽ向くなんてできないでしょ? 一歩ずつでも近づいていけばいいじゃない』

 その言葉に、おびえて丸くなっていた背をやさしく押されたような気持ちになる。

 そうか。

 乗り込む列車を自分で変えなきゃ、いつまで経っても同じ方向には進めないわよね。

 自分でも驚くほどにしゃんと背筋が伸びた次の瞬間、窓枠の中に映りこんできた降車駅のホーム。
「わたし……」
 そうしてゆっくりと停止し、静かに開いた扉の前で小さく決意する。
「追いかけて、みようかな」
 迷い彷徨いそれでも立ち向かおうとする、愚かしくもいとおしい恋心。
 長い堂々巡りの果てにやっと見つけた明日への指針に、私は開かれたその向こう側へと思い切った一歩を踏み出した。


(400字詰め原稿用紙換算 6枚)


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