ふくよかなるもの
 誰しも冬になると恋しくなるものがある。
 特にも冷気に曝されたこの身体などは、包み癒してくれるぬくもりを切に切に乞うている。

 ……なんて文筆家気取りの気障な台詞も、空っぽの財布を穴が開くほどねめつけながらじゃぁ、てんで格好がつかない。
「足んねぇ」
 小一時間前から降りだした雪の中、バイト先からバス停までやって来た俺は、すぐ傍にある商店の軒先で白い嘆きを吐き出していた。
 そうして肩を落とし見やった視線の先。そこにはこの店のばあちゃん特製の『あんまん』を蒸す蒸篭(せいろ)がある。北風のかよう夕暮れの商店街の中で、ひときわ目を引くもうもうとした湯気。未練を捨てきれない腹の虫が小さく呻いて夕飯前の空腹を助長した。
 くっそー、せめてバイト代の支給が今日ならなぁ。
 いいやそれよりも、昼にカツカレー(目玉焼きつき)をがっついたのがまずかった。我慢して普通のカレーにしとけば、バス賃払っても残りで買えたのに。
 けど、だからって有り金はたいて雪ン中を5キロも歩きたくはねぇし……
 などと心の中で問答したところで今更どうにもならない。店番の親父の視線もいよいよ痛くなってきたし、ここは男らしく諦めようかと思ったその時だった。
「杉山君?」
 まるで春風のように穏やかな声と、さくさくと雪を踏む足音がこちらに近づいてくる。顔をそちらに向けると、やってきたのは大学で同じ講座を受けている山崎悠子だった。背中まである黒髪に眼鏡の、大人しい物静かな印象を持つ女子学生である。
「もしかしてバイトとかの帰り?」
 思いがけない場所での遭遇に驚いていると、店の軒下に入った彼女は雪を払いつつそう問うてきた。
「あ、ああ。山崎は?」
「今日は午前中だけだったし、バスまで図書館で時間を潰してたの」
 らしいな、と咄嗟に思う。男子の間で彼女は『お嬢様』とかいわゆる別世界的位置づけで、自分もそれには賛同している。そのため学内では遠巻きに憧れてるのがほとんどで、挨拶以外の会話などしたことがなかった。けれどいざこうして隣に並ばれてみると、なんてことはない、話し方も仕草もいたって普通の女の子……っていうか、俺の名前覚えてくれてたんだな。なんかそっちの方がどきどきする。
「ねぇ杉山君?」
 そのとき突然呼ばれてはっと我に返る。どうやらひとときトリップしていたらしい。
「あ、悪い。なに?」
「あのね、折り入って話があるんだけど」
 神妙な顔で言われてグっと心臓を掴まれたような感覚に陥る。女の子から相談事を持ち込まれるなんて人生初だし、どう答えたらいいのか全く見当がつかない。こういうときの対処を、敦史――こいつはタラシで有名な友人だが――に聞いておけばよかったと今更後悔する。
 そんな内心の焦りを知ってか知らずか、彼女はバッグの中から赤い革財布を取り出すと、おもむろに下からのぞきこんできた。
「あのね、私今とってもお腹がすいてるの」
「へ」
「だから杉山君さえよかったら、『共同購入』っていうのはどうかなと思って」
 湯気の立つ蒸篭を指差しての文句。予想だにせぬそれに、一瞬何を言われたのかが理解できずに聞き返す。
「え? それって……?」
「だって杉山君、財布とこれを交互に見ながら、すごーくむつかしい顔してるんだもの。多分私とおんなじ状況なんじゃないかと思って」
 自覚はなかったがよほどすごい表情だったらしい。思わず赤面すると、彼女はお腹をさすりながら小さく笑って続けた。
「私今持ち合わせが少なくて。でもお腹の虫が『何か食べさせろ』ってうるさいし……何とかなだめておかないと、バスの中で悲鳴を上げられそうだから」
 なんだそういうことかと、はちきれんばかりだった期待が一気にしぼんでゆく。と同時に己の妄想具合に苦笑が漏れ、それを見た彼女も照れ笑いを見せた。
「バス賃を抜いたら100円しか出せないんだけど、それでもよかったら折半しない?」
 手作りあんまんは200円。丁度いいことに自分も100円しか出せない。どのみち丸々1個なんて贅沢はいえないのだから、食べられないよりは食べられる方がいいに決まってる。彼女の言うように、バスの中でひもじさを曝すことになったらそれこそ恥だ。
 そうと決まれば、と俺はすぐさま財布に手を突っ込み100円玉をつまみ上げた。
「乗った」
「よかった、交渉成立ね」
 にこりと笑った彼女は俺から100円玉を受け取ると、すぐさまあんまんをひとつ注文した。美人の女子大生を相手にいい気になったのか、親父はにこにこと蒸篭の蓋を開けて応える。そうして代金とブツを交換しこちらに向き直ると、彼女は店の前のベンチに俺を誘った。冷えた座面に一瞬身体が震えたが、目の前に半分に割ったあんまんが差し出されるとそれも失せていった。
「はい、どうぞ」
 白くてやわらかな皮と、それに包まれてしっとりと輝くこしあん。それを見ただけで口の中が潤い、腹の虫が『さっさとよこせ』と疼く。
「じゃあ、戦友に乾杯」
「ああ」
 半分ずつのあんまんを杯に見立てて軽く触れ合わせ、いざもうもうと立つ湯気に挑んでゆく……が次の瞬間、視界の隅に思いがけないものを捉えて俺はぴたりと動きを止めた。

 まふっ

 そう擬音化するのがふさわしい行動。彼女が「あーん」と口を開けて直接あんまんにかぶりついたからだ。いかにも上品な食べ方をイメージしていたため、それはかなりショッキングな光景だった。
「なぁに?」
 すっかり固まっていた俺は、不思議そうな顔にどう答えたらいいのか分からずただひたすら困った。すると事を察したらしく、向こうが先手を打ってくる。
「もしかして、はしたない食べ方だって思った?」
 いや別にと慌てて返すが、彼女は「いいのよ、それで」とあっけらかんと続けた。
「折角ほかほかでふわふわなんだもの、直接触れたほうが何倍も美味しい食べ方だって私は思うわ。だから他の人がどう思おうが気にならないの」
 言って二口目をかぶりつく。
「もっとも『お嬢様』とは似ても似つかない、ただの食いしん坊の女じゃないかと思われるだろうけどね」
 湯気と一緒に向けられた含む台詞に、少々バツが悪くなって首を縮こめる。自分たちの勝手な妄想に、彼女は以前から気付いていたようだ。そこはかとない逆襲に女の計り知れなさを感じつつ、その主張には一理あると手にしたあんまんをみつめる。
 わざわざ構える必要はねぇってことか。
 心でつぶやいて自分も大口開けてかぶりつき、熱い湯気ごとあんまんを味わう。なぜだろう不思議と肩の力が抜け、その代わりに温まった空気が冷えた全身に染み渡ってゆく気がした。
 あ、美味い。
「おいしいね」
 タイミングよく放たれたそれに頷き返してふと気づく。誰かと一緒に食事をするなんてずいぶん久しぶりだ。しかも、こんな自然なやりとりを前にしたのはいつのことだったろう。
 しばらくの間遠ざかっていた人のふくよかさ。懐かしさにも似たそれを自覚した途端じんと眼の奥が熱くなって、誤魔化しついでに視線を上げると、彼女の背の側に雪の中を進んでくるバスが見え咄嗟に迷う。
 手にしたあんまんの残りと、寒風の中での20分の待ち時間。
 だが次の瞬間、天秤にかけたその一方がかたんと傾き、俺は今までにない速さで答えを選択していた。
 もう少しだけ長く、触れていよう。

 ほかほかでふわふわの、真冬でこそ気付くこの醍醐味(ぬくもり)に。


(400字詰め原稿用紙換算 10枚)


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