褐色の彫刻(スカルプチャー)
 あなたの愛車。エアコンの通風口にはドリンクホルダーが取り付けてあって、そこはいつも缶コーヒーの指定席だ。残念ながらホルダーはひとつ。私はいつも、自分の飲み物を手で持っているしかなかった。
「ねぇ」
「何」
「それってそんなにおいしい?」
 わざわざ指をさして言う自分に、彼は何を今さらと言った風にいぶかしげな瞳を向けてくる。
 私はコーヒーが苦手だった。
 小学生のとき初めて飲んだインスタントコーヒーは、子供の刺激に弱い舌に絡み付いて苦いだけの代物だった。何杯もミルクと砂糖を入れたけれど結局飲みきれず、文字通りの苦い思い出だけが私の中に残った。
 それ以来、中学でも高校でも大学でも、私の中で飲み物といえばイコール『紅茶』。舌に触る感触が柔らかくて、それでいてずっしりとした重厚感やすっきりとした爽快感、脳に気持ちのいいそれらの感覚が幾重にも楽しめる。友人とカフェに入ればアッサムのミルクティー、ファミレスではダージリン、ペットボトルはアールグレイといった具合に、その時々の心境で茶葉を変えて楽しむ。
 けれどもいつからだろう、私の飲み物レパートリーにコーヒーという名のそれが加わったのだ。
 それには理由がある。
 彼と――今隣でハンドルを握る彼と出会ったからだ。
 私より二つ年が上の彼。その彼の、企画書を追いながら缶コーヒーを傾けるスーツ姿に、新人だった私は大人の男性の魅力を感じたのだった。
『先輩、コーヒーお好きなんですか?』
 始まりはお茶汲みの茶碗を洗いながらの、給湯室でのそんな会話。まぁね、と短く答えて缶を棄てていった彼の背中に、私はコーヒーのことを勉強してみようかなと思いはじめていた。
 まずは手近な缶コーヒーからと、過去のトラウマを克服しようとするかのように、一生懸命自販機に貢献した。最初のうちはやっぱり辛かったけれど、それでも飲み続けていると、なんとなくではあるが味の違いがわかってきたような気がした。それから自宅でドリップしてみたり、カフェでプロの味を試してみたりと様々に試行錯誤を重ねた。小学校からの親友の理沙なんか、私がコーヒーを注文する姿に大層驚いていたっけ。
 『何かあったの?』と聞く彼女に『女が変わるきっかけなんて星の数ほどあるでしょ』と私は返したものだ。そんな本質を避けた回答でも、彼女は何事かを察してくれたようだったが。
 そうして1年も過ぎた頃、企画課に移った私は彼の向かいに座ることになり、しめたとばかりに私のほうからコーヒーの話題を振ってみたのだった。突然の話に彼は驚いたようだったけれど、次第に打ち解けて薀蓄を教えてくれるようになった。基礎から雑学までその幅広い知識を教授されるうちに、いつの間にか私は勤務時間だけでなく、それ以外の時間も彼と過ごすようになっていた。
 週末ともなれば二人でどこかへ出かける。彼の転がす愛車は、少年の躍動感と大人の落ち着きを同時に備えたセダンのスポーツタイプ。その6速シフトを大胆に且つしなやかに操る大きな手が、銀色のノブから離れて缶コーヒーに添えられる。その一連の流れが、なんともいえない妖艶さを漂わせている。そして上下する喉仏、ほんの少し濡れた唇。……それがどんな味をしているか、私はもう十分に知っていた。
 苦いのはなにもコーヒーのせいばかりではない。太くてずんぐりの煙草。彼は紫煙をくゆり、それから深い褐色の液体を楽しむのが趣味なのだ。
 どちらも個性が強すぎて一緒くたにはならないはずなのに、どうしてそれを、同じ体で一度に楽しむ事が出来るのだろう。コーヒーはともかく、煙草はパッケージを鑑賞するだけの自分には、その感覚がどうしても理解できない。
「聞いてるか?」
 ふと彼の声で我に返った。自分が思いにふけっている間に、彼はもしかしたら先程の回答をくれていたのかもしれない。少し怒ったような声色だった。聞いてるわとそっけなく返すと、さも疑わしいといったような表情を見せた。
 そこからしばしの沈黙が降りる。6気筒のエンジン音が、太いマフラーから二酸化炭素と共に抜けていく。その重低音を聞きながら、私は無言のこのときが無性に哀しくなった。
「水、落ちてるぞ」
 突然の言葉にはっと膝の上を見ると、手にしていたペットボトルの水滴がスカートに滲んでいた。慌ててハンカチを取り出してペットボトルを包む。そんな私の行動を見て、彼がいささかの苦笑いを浮かべた。
「勿体無い」
「なにが?」
「そのぐらいならすぐ乾くだろ?わざわざ新品(おろしたて)のハンカチを汚すことないじゃないか」
 ペットボトルを包んでいるハンカチは、先週彼が買ってくれたものなのだ。
「どうしてよ。だってハンカチってそういうときのために使うものでしょう?ただ大事にしまっておくだけの飾り物じゃないのよ」
 私の答えに、彼は不満そうな表情を見せた。自分が選んで買ったブランド物のハンカチが、水を含んでくしゃくしゃにされた挙句、ノンブランドの安スカートの盾にされたとでも解釈したのか。
「……女って、そういうところは変に現実主義(リアリズム)だよな」
 そう言って視線を正面に戻した彼にむっとする。だったら後生大事にそれをしまっておけというの?随分男は感傷主義(ロマンチシズム)なのねと言い返したくなった。
 そんな性別(ジェンダー)に依った台詞に不思議な寂しさを感じるのは何故だろう。
 今では『女だてらに』『男勝りに』世の中を渡っていける力を得ようとしている私たちでも、すべてがすべて男性と同等になれるわけじゃない。
 女性だからこそわかる感情、理解できる思い。
 それはたとえば、私専用のドリンクホルダーをつけて欲しい、なんてちっぽけな願いだったりもする。こんな些細な事でも、叶えてもらったならきっと飛び上がって喜ぶのだ。これ以上ないくらい幸せになれるのだ。もしもそれが、自分にとっては特別な記念日に重なったとすれば尚更のこと。それを期待したいのだって女性特有の心理。
 コーヒーと紅茶が相容れないことはわかってる。一緒になれないことはわかっているけれど、それでも、ホルター越しに傍に寄り添うことぐらいは出来るはずでしょう?
 どのぐらい寄り添えるのかは、多分私たちの努力次第だったと思うの。
 結局私もあなたも、それぞれの上っ面を見ていたに過ぎなかった。表層を見て、すべてを解っていたつもりになっていただけ。それ以上を知ろうとする努力を怠った、怠惰な『人』同士だったのよ。
 それじゃぁ、とんでもなく浅はかな嗜好品の知識とおんなじ。
「……情けないわ」
 そう呟いた私の手に、ペットボトルの汗ではない水滴が落ちる。
 手の中の紅茶は、コーヒーに寄り添うことが出来なかった。本質を見抜いてそれを愛し続けることが出来なかった。たとえ相容れなくても、添いたい想いを持続していく努力を出来るのならよかった。
 けれど、私にはそれが出来ないと思う。味わった最後に感じたのが苦味だけだったというのがその証拠。そして、私はそれに耐えがたい苦痛さえ感じたのだ。
「さよなら、コーヒーさん。次はあなたに負けない香りと奥深さをもった紅茶に出会えるといいわね」
 ふと小さく呟く。がエンジン音にかき消されて彼には届かなかったようだ。
 その時信号が赤に変わった。ゆっくりと車が停止する。シフトをニュートラルにして、彼が何かを口にしようと唇を開きかけた。
 その一瞬を見計らって、私は颯爽とドアを開ける。車を降りて雑踏へと踏み込んだ。

 再びの虚勢――これ見よがしな強い女を演じつつも、心の中では車に残した空のペットボトルと同じぐらいの涙を流して。


その水滴を受け止めてくれるハンカチとホルダーを狂おしく求めながら。


(400字詰め原稿用紙換算 10枚)


inserted by FC2 system