化学のスヽメ 第三講義 -P&S Thermoelectric Effect-
金曜日の夜、21時12分。
 篠田英理子は腕時計を見やり、時刻どおりに到着した目の前の車輌に乗り込んだ。同時に唇から漏れ出したため息。暗鬱とした気持ちに助長された身体の重さが、つり革を掴んだ手にのしかかる。
 すべての起こりは、先ほどかかってきた電話だった。
「これからハンドのチーム連中と飲み会だから」
 恋人である徳永史明から伝えられたのは、至極事務的で自分本位な内容。普段なら大人の分別をもって憤懣を押し止めるところなのだが、今夜ばかりはどうしても譲れない理由があった。ゆえにその後に続いたやりとり、特にも「女っていちいち面倒臭ぇのな」という捨て台詞に、英理子は己のうちにあったはずの熱が瞬く間に冷めていく感覚を抱いた。
 そうだ、こんな結果はわかりきったことだったじゃないか。これまで何度となく思い知らされてきたというのに、ゼロではないというだけの可能性に、純真な夢想と情熱を傾け続けてきた自分。そうして年を重ねたその末路で、果たして今どんな顔をしているものか、いっそ笑ってやろうと視線を上げたその時だった。
「篠田サン」
 突然傍らから声をかけられ、心底驚いてそちらを向く。いつの間にか隣に並んで立っていた青年――会社の同期で同じ部署に所属する香西誠司は、黒ぶち眼鏡の奥の切れ長の目を少し細めた。
「驚かさないでよ」
「そんなにびっくりしたの?」と小さく笑った彼に、ごほんと咳払いをして執り成す。
「それで、何の用?」
「篠田サンてさ、もしかして『徳永史明の彼女』だったの?」
 おかしな強調の仕方に怪訝な顔を向けると、少し困ったような表情が返ってきた。
「さっき階段の前で話してたから」
「聞いてたのね」
「断片的に聞こえたんだ、『史明』に『ハンド』ってさ。東森大の左45度、徳永史明って言ったら、ハンドボールやってたヤツなら誰でも知ってる」
「え? もしかしてあなたも」
「彼に比べたら地味なキーパーだったんだけど」
 確かに纏う雰囲気は前に出る史明とは対照的、沈着に後方でフィールドを読むそれだ。どうりで、と合点していると、彼がさも可笑しそうに小さく鼻を鳴らした。
「なに」
「いや、意外だなと思って」
「意外?」
 色々と――異性関係も含めてだが――派手な史明に、地味な自分はつりあわないと言いたいのだろうか。美人と言うにはおこがましいが、見てくれはそれなりに整えているつもりでいた英理子は思わずむくれる。すると彼は「誤解しないで」と続けてきた。
「篠田サンは、他の女の子とは違うなと思ってたからさ」
「何よそれ。どういう意味」
「まぁ、俺の期待が過ぎただけかもしれないな」
 いかにも挑発的で棘を持った物言い。眉をひそめ不快感を顕わにすると、彼はそんな反応をも楽しんでいるかのような笑みを見せ、それきり口を閉じてしまった。
「ああ、そうだ」
 だが次の駅に列車が停まったとき、彼が再び口を開いた。
「今日、誕生日なんだって?」
 やっぱり聞き耳を立てていたのねと責めるより早く、鞄から封筒が取り出され目の前に差し出される。いたずらめいた表情を訝しながらそれを受け取り、中のものを確かめた直後はっとした。
「これは」
 ひと揃いの書類。それは香西が立案し上に諮っていたもののようだった。部内でも、そして同期の中でも群を抜く彼の企画力。既に決裁になっており、おそらく週明けすぐにでも着手するのだろう。英理子は半ばを好奇心に、半ばを先を越された悔しさに駆られながら、列車の中という状況にも関わらずすぐさまページを繰り始めた。
「流石は篠田女史。もう顔つきが変わったね」
 がたん、という振動と共に再び走り出した列車。途端バランスを崩してよろけた英理子の肘を香西が掴んで支える。
「情熱を職分に注ぎ切れる人こそ美しく、我が敵手に値する」
「え」
「それでこそ、あなただ」
 そうして継がれた言葉は、高名な劇作家が綴ったかのように格調高く、どこか甘い響きを伴って耳に届いた。
 しかし触れていた手が離れると、その余韻も温もりと共に消え失せてしまう。そのときふと、一連の行動の真意を掴んだ気がして思わず彼を見た。
「活を、入れてくれたってわけ?」
 一方で失ったはずの熱が、一方で起こった事実。それは挑発が大いに効を奏した結果だと言わざるを得まい。得られた解を言葉にしてみるが、彼は、静かに目を細めただけで明確な答えを示してはくれなかった。
 なんて回りくどい手法をと呆れつつ、口惜しさを含ませて宣言する。
「受けて立とうじゃないの」
 ばしん、と手にした書類を彼にたたき返し、停車と同時に開いたドアを勇んでくぐると、「どうぞお手柔らかに」と今更の是認が背中越しにもたらされた。
 どこまでも小憎らしいヤツ、とそれを振り返ることなく英理子は移動を始める。
 
 今度は自分が、と生まれた熱意を、踏み出す歩みの力強さに変えて。


(400字詰め原稿用紙換算 6枚)


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