HIROKANA-ss () −Ich will mit dir alt werden−
「ねぇ、カナちゃん」
 うららかな日曜日の午後。3時のお茶の用意をしている妻に、ソファに寝そべった夫――浩隆(ひろたか)がしみじみと言う。
「年を取ったよね、僕らも」
 途端部屋の空気がぴしり、とこわばった気がした。
「なにそれ。あんたあたしに喧嘩売ってんの」
 目には見えずとも瞬く間に立ち上った怒り。いつもなら青ざめて弁解を始めるところなのだが、今日は不思議な余裕があった。
「そうじゃないよ。我が奥様の素敵な横顔に、素直にそう思っただけさ」
 ついでにドラマの台詞みたいな上手いフレーズが口をついて出てくる。
「おべんちゃらなんかでごまかされないわよ」
「いやいや、僕はいたって本気だよ」
「ならそのニヤケた笑いは何? からかって楽しんでるようにしか見えないんですけど」
 おっと、思わず頬が緩んでいたらしい。自覚がなかったせいで少しばかり焦るが、向けられる冷たい視線すらなんだか今日の陽射しのように心地よく思える。
「高校生の時に出会って、大学で再会して、猛烈にアタックして、念願叶って結婚して。それから何年か経つけど、その間に色々変わったし、変わらないな、と思って」
「ちょっと待ちなさいよ。誰が何をしたですって?」
「まぁまぁ。細かいエピソードはさておいて」
 ゆったりと動じない構えに、さもしぶしぶと口を閉じた彼女に諭す。
「磨きがかかった、ってことだよ」
「は?」
「要するに、何歳になろうが君は綺麗なんだってわかったんだ」
「何よそれ。あたしが今お肌の曲がり角だからって慰めてくれてるわけ?」
「そうじゃない」
 ひねくれた台詞に至極真剣なまなざしで返す。
「改めて誓っているんだよ。これに」
 掲げて見せた左手の薬指に光る指輪。そうして声になりきらない、久しぶりの独語が自然に唇からほどけ出る。環の内側に刻まれた、第二の母国語とも言えるそれに託した望み、込めた決意。日本の言葉では知られたくない――いや、単に口にするのが照れくさい――その無垢でまっすぐな想い。
 そんな突然の沈黙に、察してくれたのだろうか、彼女が自分の手元に視線を落とす。
「ねぇ、ヒロ」
 しばしの間を置いて放たれた、何事かを乞うような声。ほんのりと色づく両頬ともじもじと指を弄ぶ様子に、その心情を推し量ってから応える。
「なんだい」
「いい加減、教えてくれてもいいんじゃない……の?」
 こちらの余裕綽綽な態度が癇に障るのだろう。甘える声色に反して恨みがましくぎろりと睨まれるが、こちらもさるもの、少しばかりの意地の悪さを含ませそ知らぬふりで返した。
「なんのことだい」
 彼女が自ら辞書を引かない理由には見当がついている。そして焦らされている現状に、やるせない思いが募っているだろうこともよく分かっている。だがこれはある意味プライドのぶつかり合い、今のところはまだ自分に若干の分があるらしい。ふてくされたように頬を膨らませているのがその証拠。
 しかし、しかし、だ。
 そんな姿を見せられたら――と心の中でつぶやき、懐柔される瞬間に似た息をひとつついて立ち上がる。
「一緒に、答えを見つけていこう。そういう意味なんだよ」
 彼女に歩み寄って軽く髪を撫でる。真実に近しい、けれど答えそのものではない表現。出しうる限りの示唆なのだが、こちらに向けられた表情はいかにも不満げだ。
「なによそれ。余計わけわかんない」
「それでもいいんだ。理解は明日でも、明後日でも、何十年先でも」
「そんな悠長なこと言ってたら、しわしわのおじいちゃんやおばあちゃんになっちゃうじゃないの」
「いいじゃないかそれでも。そうなるまで、つきあってくれるっていうことなんだろう?」
 わざとからかうように覗き込むと、照れたのか慌てて視線が外される。
「……まぁ別に、他に用事なんてないから構わないけど」
 精一杯の虚勢。その答えに、心の底からの喜びが浮かび上がってくる。
「そんな君だから託そうと思ったんだよ」
 何が変わって、何が変わらないのか。
 数あるその答えを探し続ける旅――自分の生、そのすべての時間を。

 だからこれからも、答えがひとつ得られるたびに改めて誓おう。

「Ich will mit dir alt werden.」


400字詰め原稿用紙換算 7枚

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